矢野二郎
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矢野 二郎 / 次郎 やの じろう | |
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生年月日 | 1845年2月21日(弘化2年1月15日) |
出生地 | 武蔵国江戸駒込 |
没年月日 | 1906年6月17日(61歳没) |
死没地 | 東京府東京市麻布区麻布広尾(現・東京都港区) |
称号 | 正五位勲五等 |
配偶者 | 栄子(石原近義長女) |
親族 | 謹爾(長男)、満子(長女・高崎弓彦妻)、二三子(次女・守岡多仲妻)、晴子(三女)、銀子(四女・藤野幹妻)、慎爾(四男)、富永冬樹(実兄)、中山増子(実妹・中山譲治妻)、増田栄子(同・益田孝妻) |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1904年8月22日 - 1906年6月18日[1] |
前半生は新進の洋学者として旧江戸幕府および明治新政府において外交・通商などの実務に従事し、30代以降は一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校・高等商業学校の草創期の校長を長く務め、日本における商業教育の開拓者となった。また共立女子大学の創設者の一人であることでも知られている。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、15頁。
- ^ 『日本近現代人物履歴事典』などは明治5年10月とする。
- ^ 『官報』第6345号、明治37年8月23日。
- ^ 『官報』第354号「叙任及辞令」1884年9月1日。
- ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第6890号「叙任及辞令」1906年06月19日
- ^ a b 富永冬樹(とみながふゆき)谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 矢野二郎年表でつづる、大学の ”始まり” 物語。2021 大学事始編纂室
- ^ a b c 『矢野二郎伝』矢野二郎翁傳記編纂會、1913年 p127
- ^ 『木戸松菊公逸話』有朋堂書店、1935年、p197
- ^ 富永敏麿『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 川上市松(かわかみいちまつ)谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 今井一良「瓜生 (永井) 繁子の英文「日記」と「回想記」」『英学史研究』第1985巻第17号、日本英学史学会、1984年、7-17頁、doi:10.5024/jeigakushi.1985.7、ISSN 0386-9490、NAID 130003624793。
- ^ a b 中山誠一郎谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 中山譲治『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 中山譲治(読み)なかやま じょうじコトバンク
- ^ a b c 『矢野二郎伝』矢野二郎翁傳記編纂會、1913年
- ^ 守岡多仲『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
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