白馬の戦い
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兵力で劣る曹操軍が袁紹軍を軍略で翻弄し、袁紹軍の顔良は一戦であえなく斬られた。その直後に曹操が策略を用いて袁紹軍の文醜を延津で戦死させた戦いとまとめて「白馬・延津の戦い」と呼ぶこともある。
背景
袁紹は後漢の名門汝南袁氏出身であり、189年の霊帝没後の政変の際には宦官勢力と対抗する外戚の大将軍何進に従い、何進の暗殺後は十常侍の皆殺しを指揮した。その後に権力を掌握した董卓に一時は追われたが、直後に曹操ら関東の諸侯の盟主となり、同盟解消後も群雄のリーダー格の1人として冀州河北に勢力を築き、董卓や一族の袁術、北方から河北進出を狙う公孫瓚と対立しつつ勢力を広げた。
袁紹が河北において公孫瓚と争いを続ける一方、曹操は当初は袁紹に服属し、その武将として河南に派遣され、袁紹の対抗者となっていた袁術や、徐州を中心に勢力を蓄えていた陶謙、董卓を暗殺した武力を誇る呂布といった勢力を駆逐し、袁紹から自立した一方の雄となっていた。
董卓暗殺後の混迷を深める長安から董承らに庇護された献帝が脱出してくると、袁紹は元々献帝を廃する考えもあったことと、家臣団が賛成派と反対派に別れ意見の収拾をつけることができなかった。その間に曹操は許の地に献帝を迎え、天下に号令をかける大義名分を手にすることになった。袁紹は曹操の風下に立たされることを嫌い、理由をつけて曹操の政治に干渉したが、袁紹には公孫瓚、曹操には袁術・呂布・劉表・張繡といった強敵が近隣に存在していたため、両者の亀裂は決定的なものにはならなかった。
199年3月、袁紹は公孫瓚を易京の戦いで滅ぼした。その間にも各地に勢力を広げ、冀州・青州・并州・幽州の四州を治める河北最大の勢力となった。さらに北方の周辺民族である烏桓の勢力と友好関係を結び後顧の憂いを断ち、曹操との対決姿勢を露骨にした。一方、曹操も197年秋9月に袁術を陳国の戦いで大敗させ、さらに198年には張繡・劉表と呂布に対し攻勢に出て、12月には下邳城の戦いで呂布を滅亡させた。曹操は袁紹の官職を剥奪するなど、その勢力圏を脅かす調略を行い、両者の全面対決は避けられなくなりつつあった。
開戦直前の動き
曹操は199年夏4月、暗殺された張楊の陣営を指導していた眭固が袁紹に味方しようとしたため、史渙・曹仁らの軍を派遣しこれを阻止し、張楊の旧臣でもある董昭を使い、張楊の勢力を取り込んだ。
199年秋8月、曹操は袁紹に備えるため黄河の畔の要地である黎陽に布陣するとともに、臧覇に命じて青州方面から袁紹を牽制した。于禁を備えとして置き、9月には許都に帰還した。
かつて(197年春正月)、宛城で曹操を破ったこともある張繡は、荊州の劉表と結びたびたび曹操を苦しめていたが、199年冬11月に軍勢を引き連れて降伏した。曹操は張繡を列侯に封じ、さらにその参謀の賈詡を重用した。
この間、袁紹との勢力の合流を図った揚州の袁術を牽制するため、揚州刺史に厳象を派遣し、さらに徐州には劉備を派遣した。199年6月(『後漢書』献帝紀)、孤立した袁術は失意のうちに病死する。
200年春正月、許都で董承の謀反が発覚し、ひそかに董承と呼応していた劉備も徐州で刺史の車冑を殺害し反乱を起こした。曹操は董承の一派を処刑すると、劉備を討つため親征した。袁紹の参謀である田豊は曹操の背後をつくことを進言したが、袁紹は息子の病気を理由に出陣を許さなかった。曹操は劉備を敗走させ、その部将の夏侯博と関羽を捕虜とした。劉備は袁紹を頼って落ち延びた。
白馬の戦い
200年春2月、袁紹は田豊や沮授の反対を押し切り、黄河の畔に大軍を集め曹操との決戦に臨んだ。軍勢数十万で、審配と逢紀が軍の事務を統括し、田豊・荀諶・許攸を参謀に、顔良と文醜を将帥に任命し、精兵10万、騎兵1万と号する布陣であった。袁紹は檄文の起草を陳琳に命じ、曹操を痛烈に非難させた。
まず、将軍の郭図・淳于瓊・顔良を派遣して白馬県にいる東郡太守の劉延を攻撃した。
200年夏4月、曹操は荀攸の進言を受けて軍を2つに分け、西より将軍の于禁・楽進らを渡渉させ袁紹軍を牽制させつつ、同じく将軍の関羽・張遼(呂布の降将)を先鋒として機動力のある軽騎兵の指揮を執らせて白馬県を救援に向かわせた。袁紹が西の于禁らの軍に気を取られている隙に、関羽らの軍が迫ってきたため、驚いた顔良は迎撃に来たが、関羽が顔良を斬り殺し、袁紹軍を撃退した。
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