白馬の戦い 延津の戦い

白馬の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/09 03:41 UTC 版)

延津の戦い

白馬の包囲を解いた曹操は、その住民を移住させ合流しようとした。袁紹はそれを阻止するため、将軍の文醜に渡河を命じた。文醜は劉備と共に延津の南まで来たが、ちょうどそのときに白馬からの輜重部隊がやってきた。曹操と荀攸はこれを利用し、文醜の軍の秩序が乱れたのを待って襲撃しようとした。果たして文醜の軍は略奪を始め、当初は5・6000人いた騎兵も600に満たない数まで減少した。これをみた曹操は文醜の軍に攻撃を加え、散々にこれを破り、文醜を戦死させた。

名将として知られていた顔良・文醜を一戦で斬った曹操軍の勇名は轟いた。

官渡の戦いへ

このように曹操は局地的な勝利を積み重ねたものの、袁紹の主力は未だに健在であり、さらに袁氏の本籍である豫州においてはほとんどの郡が袁紹に呼応する動きを見せていた。劉備は袁紹の命令で豫州の黄巾の残党を集め曹操の背後を脅かした。さらに袁術の勢力を吸収した揚州の孫策も不穏な動きを示しており、許都を狙うという風聞がもっぱらであった。

戦力と物量で勝る袁紹に対し、曹操は官渡への戦略的撤退を余儀なくされた。袁紹は黄河を渡って陽武まで進出した。関羽は旧主の劉備の消息が判明したため、曹操の下を去っている。

于禁や徐晃といった諸将の奮戦や、荀彧鍾繇李通趙儼らの後方支援にもかかわらず、曹操は目だった戦術的な勝利も得られぬまま兵糧が先に枯渇する状況に陥ってしまった。しかし、袁紹陣営の内情は、既に南下策の是非をめぐって田豊と沮授が相次いで遠ざけられるなど配下同士の対立が深刻であった。袁紹は200年冬10月に淳于瓊ら5名の将に命じて烏巣において兵糧の輸送に従事させたが、袁紹に見切りをつけた許攸は密かに陣を抜け出し、曹操に袁紹軍の輸送作戦を知らせ、淳于瓊らの攻撃を勧めた。曹操はこの進言を受けて烏巣を襲撃し、これを成功させた(烏巣の戦い)。袁紹はこのときも郭図と張郃が対立するなど統制を欠き、作戦が一貫しないまま軍を動かし、結局、烏巣の兵糧を失うと同時に多くの軍勢を失い、敗走を余儀なくされた。

袁氏の没落と曹操の台頭

一年後、曹操は倉亭まで軍を進め、袁紹の駐屯軍を破った(倉亭の戦い)。袁紹は領内の反乱の鎮圧に忙殺される中で202年に病没している。

袁紹の後継を袁譚袁尚とが争い、袁家の勢力は二分された。

曹操は郭嘉の進言により袁譚と一時結び、袁尚と戦い204年8月には袁尚の臣下の審配が守備するを陥落させ、袁尚を幽州に追いやった。次に袁尚の勢力を吸収しつつあった袁譚を理由をつけて攻撃し、205年春正月に南皮において袁譚・郭図を斬った。袁譚の本拠であった青州には張遼らを派遣して平定した。

曹操はさらに袁尚らを追って幽州に進撃し、207年秋8月には柳城の戦いで烏桓の蹋頓を斬るなどして袁氏の命脈を完全に断ち、さらに烏桓や遼東公孫氏を服属させている。また、関中や并州方面においても袁氏陣営の高幹郭援を滅ぼす一方で、張燕馬騰韓遂、王邑らを服属させるなど、曹操はその勢力圏を大きく広げることとなった。




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