桐工作
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参考文献
- 今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964年10月。ASIN B000JAF7EU。
- 岡田芳政「波瀾の汪兆銘政権―命をかけた和平工作」『証言の昭和史3 紀元は二六〇〇年』学習研究社、1983年3月。ISBN 4-05-004865-5。
- 上坂冬子『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実 上巻』講談社、1999年10月。ISBN 4-06-209928-4。
- 川島真「「傀儡政権」とは何か-汪精衛政権を中心に-」『決定版 日中戦争』新潮社〈新潮新書〉、2018年11月。ISBN 978-4-10-610788-7。
- 黒井文太郎『謀略の昭和裏面史―特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!』宝島社〈別冊宝島REAL〉、2006年2月。ISBN 978-4796651936。
- 小島晋治、丸山松幸『中国近現代史』岩波書店〈岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8。
- フランク・B・ギブニー 編「日華事変」『ブリタニカ国際大百科事典15』ティビーエス・ブリタニカ、1974年10月。
- 波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞社〈朝日選書〉、1991年11月。ISBN 402259537X。
- 松崎昭一「第6章 日中和平工作と軍部」『大陸侵攻と戦時体制』第一法規出版〈昭和史の軍部と政治2〉、1983年8月。
注釈
- ^ 日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石のライバルと目される要人たちの懐柔を図り、大本営直轄の土肥原機関の指揮下に、北京では大迫通貞大佐が「竹工作」を、福建省に対しては台湾を拠点に山本募大佐が「菊工作」を、重慶に対しては参謀本部の影佐禎昭大佐が「梅工作」を、上海では和知鷹二が「蘭工作」をそれぞれ行った[2]
- ^ 1938年(昭和13年)11月、上海の重光堂で開かれた、汪派の高宗武・梅思平と陸軍参謀本部の今井武夫・影佐禎昭とのあいだで開かれた会談(重光堂会談)では、汪兆銘が重慶を脱出したら、雲南省長竜雲率いる雲南軍がまず呼応することになっており、竜雲自身もまた汪の和平工作に大きな期待をかけていたが、結果として竜雲は汪一行の重慶脱出に便宜をあたえたにとどまった。結局、昆明の竜雲のみならず、四川の潘文華、第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎など、汪兆銘が期待を寄せた軍事実力者たちは誰ひとりとして汪の呼びかけに応じなかった。
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