柳河藩 立花家時代の軍制

柳河藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 09:13 UTC 版)

立花家時代の軍制

柳河藩の軍制は嘉永年間までには大組、大組迯、物頭席、小姓組、組迯書院番、組迯書院組番格、諸士格、徒士となる。

大組

柳河藩で早く成立した、馬廻相当の組で、大組は6組あるので、「六組」とも呼称される。給人蔵米知行の無足に分かれる各組組士は、1名の組頭に統括される2名の番頭の統括を受ける。

各組の組頭は、6家の譜代家老家が兼務し、例えば「立花壱岐組」といった具合に、組の呼称はその組の組頭の人名で呼称される。

大組迯

藩主直属の家臣や臣籍降下した藩主の子といった、大組に属さない家臣より構成される。当初は単に「組迯」と呼称されたが、後に成立した組迯書院番と区別されて「大組迯」と呼称されるようになる。なお、家老を勤めない大組迯の家臣1名が組迯書院番を統括した。また、両家も当初は大組迯に編入されていたが、後に分立した。

組頭を勤める世襲家老家同様に、大組迯からも柳河藩家老が登用される。大組迯出身の家老で著名な人物に立花通栄がいる。また、給人で中老や江戸留守居就任者に就任した者は大組迯に編入される。

物頭席

物頭就任者が所属。幟、鉄砲、持筒、弓、長柄といった所属部署を明記した分限帳もある。大組給人で物頭に就任すると物頭席に移転する。

小姓組

藩主側近の用人や試番、納戸、小姓、藩校助教などが所属。大組給人でこれらの役職に就任すると小姓組に移転する。

立花家時代の役職

柳川藩の上中級の役職の序列は「列役」、「端列」、「諸役人」に分かれる。ただし、「端列を列役に含めて諸役人と対比させることがある。」と「柳河藩立花家分限帳」著者は記述しているが、同書掲載の資料では端列の役職でも諸役人扱いになっているものの見受けられる。

ちなみに諸役人の役職には他藩のような「○○奉行」という呼称を用いないことが多い。領民からの徴税などの領内政治や幕府・諸藩との交渉を担当する表向と大名家を補佐する奥向に分かれ、奥向はさらに藩主の日常空間を中心に活動する藩主側近職の中奥、正室や側室、子女の生活する奥で活動する奥とに組織が分かれる。また、江戸幕府の足高の制同様に、禄高に満たない者の就任の際は合算して禄高が満たされるよう、役知が支給される場合がある。

列役

藩政の中枢を担う。「福岡縣史資料」の『柳河藩政一班』の説明によると列役には以下の役職の他、一門家や両家、家老家も含まれる。『柳河藩政一班』によると勅任官に相当するものとしている。

  • 家老
    家老定員は6名。当初は6組ある大組の頭が就任したが、後に藩主家連枝や大組頭以外の重臣からなる大組外からも登用されるようになる。中老とともに表向、奥組織の頂点とされる。
  • 中老
    当初は「奉行」と呼称されたが宝暦年間に改名。大組外より登用される。家老同様に表向、奥組織の頂点とされる。
  • 番頭
    大組に各組2名。
  • 用人
    小姓頭兼務。小姓組に所属。中奥組織では頂点とされる。禄高300石
  • 奥頭分
    奥向き一切の処理
  • 公事方奉行

端列

列役に準ずる。「福岡縣史資料」の『柳河藩政一班』での説明では以下の役職の総称としている。また『柳河藩政一班』によると奏任官に相当するものとしている。

  • 物頭
    軍制上は物頭席として独立しており、分限帳では就任者は物頭席に掲載される。大組給人が物頭になると大組から物頭席に転属される
  • 寺社町役
    寺社町奉行。当初は寺社役、町役と別々だったが、統合。
  • 船奉行
  • 試番
    「柳河藩政一班」では藩主の食事の毒見を担当したとされるが、「柳川家記」では毒見については不明とし、江戸幕府の奏者番に近いものと考察されている。「柳河藩政一班」の成立当時は定員5〜6人とされたが、幕末には10名を超えたとされる
  • 山筒頭
    五条家による世襲職。猟師を統括

諸役人

藩政・家政の実務を担う中堅役職級。下役は含まない。以下は「列並諸役人帳」(文久3年(1863年)頃作成だが、しばらく実務に使っていたと推定)を参考にしたもの

  • 目付
  • 会所目付
  • 勘定役
    他藩の勘定奉行に相当。
  • 郡役
    宝暦年間に検見役より改名。普請役兼務、他藩の郡奉行に相当。
  • 物成役
    明治2年に会計方に改名。
  • 表納戸役
  • 万役
    貸付役兼務
  • 運上役
    沖端津口兼務
  • 普請役
    船木屋兼務、他藩の普請奉行相当。
  • 山方
  • 武具方
  • 二の丸銀蔵役
  • 城地路地役
    花畑路地兼務。
  • 記録役
  • 蔵目付
  • 三の丸蔵役
  • 高蔵役
  • 嶋蔵役
  • 猟方
  • 津口
  • 代官
    明和・安永頃の分限帳での役料は白米2石3斗1升、夫銀1枚。
  • 牧役
  • 腰物方
  • 櫛役
  • 奥納戸
  • 花畑(畠)目付
  • 花畑(畠)役人
  • 監物様用達
  • 大学様用達
  • 右筆
  • 表右筆御内用兼務
  • 用人書記役
  • 茶道方
  • 大坂銀役
  • 厩方
  • 徒士頭
    一名は手廻頭兼務。徒士を統括。
  • 次目付
  • 長崎外聞役
    長崎聞役に相当。
  • 学監
    藩校校長。
  • 助教
  • 句読師
  • 書物方
  • 交合方
  • 吟味役
  • 留役
  • 書役
  • 若殿様附
    用人が兼務。
  • 若殿様守役
  • 稽古方世話役

備考

  • オノ・ヨーコの生家は小野家であり、祖父は小野英二郎である。同家は「柳川藩の家老で、立花四天王の1人小野鎮幸の子孫」といわれることがあるが、実際のところは誤説で、オノ・ヨーコの生家は家老家の小野家でないことは「文久・慶応、明治家中変遷」で確認できる。ちなみに同史料によると1896年明治29年)当時の家老家戸主は小野隆基(旧名・小野若狭)である。
  • 松田聖子(蒲池法子)の生家は柳川藩の家老格で、藩祖立花宗茂の正室の誾千代の菩提寺である良清寺を初代住職の応誉上人(蒲池統安の子)以来、預かる。家老でないのは、蒲池家は立花家譜代の家臣ではなく、蒲池鑑盛の子孫で元は柳川城主で領主の一族だったからとされる。

藩邸および江戸における菩提寺

江戸武鑑では江戸藩邸は上屋敷が下谷御徒町にあり、中屋敷と下屋敷は浅草鳥越にあった。大坂常安町に大坂藩邸があった。また、江戸武鑑には掲載されないが長崎蔵屋敷も所有している。

立花家およびその家中が江戸で死去した際に使用した菩提寺は下谷の臨済宗大徳寺派寺院の円満山広徳寺であった。


  1. ^ 「柳川歴史資料集成第3集 柳河藩立花家分限帳」。同書掲載の渡辺家史料の一つである万治3年(1660年)の分限帳では地方知行制を前提としたものになっている。同史料は家臣の給地内容が判明する唯一の史料でもある
  2. ^ 立花家記・おおむたの宝もの100選


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