村上眞一 村上眞一の概要

村上眞一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 06:15 UTC 版)

村上 眞一(村上 信一)
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県東葛飾郡沼南町
生年月日 (1963-07-13) 1963年7月13日(60歳)
身長
体重
174 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手二塁手
プロ入り 1981年 ドラフト外
初出場 1984年8月9日
最終出場 1994年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 神戸9クルーズ (2009)

経歴

印旛高では、同期の佐藤文男月山栄珠のバッテリーを擁し、一番打者、二塁手として1980年秋季関東大会決勝に進出。高崎高を5-2で破り優勝。

1981年春の選抜への出場を決める。選抜では準決勝に進み、笘篠誠治のいた上宮高を降す。決勝ではエース西川佳明をはじめ吉村禎章若井基安らを擁するPL学園高を相手に9回まで1点リードするが、土壇場で同点に追いつかれ、西川の右前打でサヨナラ負けを喫する。同年夏も県予選準決勝に進むが、銚子商に敗退。

1981年オフに、ドラフト外阪急ブレーブスに入団。高校同期の佐藤、月山も阪神タイガースに入団した。

1984年代打初打席初本塁打を記録。2打席目も代打本塁打という史上初の記録[1]でデビュー。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは2試合に代打として出場、第2戦では9回に右翼線二塁打を放ち1打点、チームの逆転勝利に貢献した。1985年には福原峰夫の不調もあり、二塁手の定位置を得て52試合に先発。その後は故障もあって一時低迷するが1988年には復活。外野手指名打者を兼ね準レギュラーとして活躍する。1990年には怪我のブーマー・ウェルズに代わり、5月から一塁手としてレギュラーに定着、45試合に先発出場を果たす。1996年限りで現役を引退。

現役引退後はプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに参加。また、ソフトボール日本リーグ1部の豊田自動織機のバッティングコーチに就任、同チームの日本リーグ3連覇に貢献した。

2009年関西独立リーグ神戸9クルーズのコーチに就任。5月15日、選手兼任コーチとして現役復帰。7月30日、中田良弘監督が解任されたことに伴い、監督代行に就任。後期シーズンを指揮した。同年限りで退団。

2016年学生野球資格回復研修を受講したうえで、翌2017年2月7日に日本学生野球協会から学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となる[2]

エピソード

  • 現役時代の1994年、プライベートで帽子を被って神戸のパチンコ店にいたところ、不審者と思われて警官2人から職務質問をされた。名前と職業を聞かれ、「オリックス・ブルーウェーブの村上です」と答えたところ、警官2人のうち年配の方から「そんなヤツは知らん」と言われ、警察署で取り調べを受けたことになり、ワイドショー番組で取り上げられた。番組の出演者は「地元球団の選手なのに… この警察官は野球は観ないんですかね」と感想の述べた。
  • 2009年7月31日の試合で、中田監督の解任に不満を抱く4選手が試合をボイコットしたため、野手が8人となり、村上監督代行が急遽選手登録し指名打者で先発出場する事態となった。

  1. ^ 【8月16日】1984年(昭59) 夢打ち砕いた 村上信一 史上初の代打2打席連続本塁打 - スポニチ、2011年8月16日。
  2. ^ 元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人”. 日刊スポーツ (2017年2月8日). 2017年2月8日閲覧。
  3. ^ 元オリックスブルーウェーブ 村上眞一 野球・守備のバイブル”. baseballpower - 楽天ブログ (2012年6月13日). 2020年4月17日閲覧。
  4. ^ 打撃の職人 元オリックスブルーウエーブ村上眞一 バッティング上達への道”. baseballpower - 楽天ブログ (2012年6月13日). 2020年4月17日閲覧。


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村上真一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 11:54 UTC 版)

村上 真一(むらかみ しんいち、1897年6月16日 - 1956年7月2日)は、将棋棋士。八段。木見金治郎九段門下。広島県呉市[注 2]出身。


注釈

  1. ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、村上のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立されていった[2]
  2. ^ a b ただし、呉市の成立は1902年であり、村上が生まれた時点では未成立。

出典

  1. ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
  2. ^ 加藤治郎原田泰夫田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220


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