挹婁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/08 06:22 UTC 版)
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歴史
古の粛慎(しゅくしん)の末裔とされ、魏代・晋代でもそのまま粛慎と呼ばれ続けた。挹婁の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と考えられている[1]。
魏代
漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、魏の黄初年間(220年 - 226年)に反乱を起こした。夫余は何度か挹婁を討伐したが、独立し魏への朝貢を行った。
明帝(在位:226年 - 239年)の青龍4年(236年)5月、粛慎(挹婁)は楛矢を献上した。
元帝(在位:260年 - 265年)の景元3年(262年)4月、遼東郡の報告で、粛慎国(挹婁)の遣使が重譯(二重通訳して)[2]入貢し、長さ3尺5寸の弓30張,長さ1尺8寸の楛矢,石弩300枚,皮骨鉄雑鎧20領,貂皮400枚を献上してきた。元帝は詔で相府に帰属させ、その王に錦罽と綿帛を賜った。
晋代
武帝(在位:265年 - 289年)の咸寧5年(279年)12月、粛慎(挹婁)は楛矢石砮を献上した。
東晋の元帝(在位:317年 - 322年)の大興2年(319年)8月、粛慎(挹婁)は江東(建康)に詣でて楛矢石砮を献上した。
成帝(在位:325年 - 342年)の時代、後趙の石虎(在位:334年 - 349年)に朝貢した。
前秦の苻堅(在位:357年 - 385年)が華北を統一すると、粛慎(挹婁)は楛矢を献じた。
地理
『三国志』には、夫余の東北千余里のところにおり、大海に面し、南は北沃沮と境を接し、北はどこまで及ぶのかわからない。その土地は険しい山地が多い。気候は寒冷で、夫余よりも厳しいとあり、外満洲(現在のロシア連邦沿海地方)の松花江流域に居住した。
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