快天山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 23:10 UTC 版)
概要
香川県中央部、丸亀市南東部の横山山系から南に伸びる尾根の先端部に築造された大型前方後円墳である[1]。後円部墳頂には江戸時代の円福寺僧侶の快天・快山・宥雅の墓(無縫塔)が残り、「快天山」の小山名・古墳名はこれに由来する[2]。調査は1950年(昭和25年)に地元中学生による露出石棺の発見とそれに伴う発掘調査がなされたのを契機とし[3]、その後数次の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を北方向に向ける。墳丘は、後円部では3段以上の築成で、前方部では3段築成[4]。墳丘長は98.8メートルを測るが、これは香川県では富田茶臼山古墳(さぬき市大川町富田中、139メートル)に次ぐ第2位、四国地方では第3位の規模になる[2][注 1]。墳丘表面では葺石のほか円筒埴輪列が検出されている[4]。墳丘周囲に周溝は認められていない[5]。埋葬施設は3基からなり、竪穴式石槨2基・竪穴式粘土槨1基がいずれも後円部に設けられている[4]。いずれも内部に刳抜式割竹形石棺(刳抜式石棺としては全国で最古式)が据えられ、棺内外からは人骨のほか多数の副葬品が検出されている[2]。
この快天山古墳は、古墳時代前期後半の4世紀中葉頃の築造と推定される[4]。築造当時としては四国地方で最大規模で、主丘(円部)の大きさはそれまでの直径30-40メートル程度(高松茶臼山古墳・猫塚古墳)から直径60メートル程度へと大きく飛躍を見せており、以後も大型前方後円墳の築造は三谷石舟古墳・富田茶臼山古墳へと継承される[6]。快天山古墳自体としては、「讃岐型前方後円墳」と呼ばれる讃岐地域独特の特徴と畿内首長墓の特徴を併せ持つほか、本古墳を契機とする刳抜式石棺の使用が以後は讃岐を中心に畿内・吉備まで広がることから、畿内との政治関係を表す古墳として注目されている[4][7]。
古墳域は2004年(平成16年)に国の史跡に指定されている[7]。
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