後漢 国際関係

後漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 03:55 UTC 版)

国際関係

2世紀の後漢

北方

王莽政権が倒れてからというもの、匈奴呼都而尸道皋若鞮単于は中国に対して傲慢な態度をとるようになり、北辺の侵入・略奪は増える一方となった。光武帝は国内を平定したばかりで、外国には手が回らず、しばしばこれに手を焼いていた。

しかし、蒲奴が新たな単于に即位すると、匈奴で旱(ひでり)と(いなご)の被害が相次ぎ、ついには匈奴国民の3分の2が死んだと伝えられる大飢饉に発展した。単于蒲奴はこの疲弊に乗じて漢が攻めてくると思い、先に和親を結ぶことにした。

時を同じくして、匈奴の右薁鞬日逐王のは独自に漢に接近しており、建武24年(48年)、遂に呼韓邪単于と称して自立し、南匈奴を建国した。その後、南匈奴は後漢に臣下の礼をとって服属し、長城内に移住して北匈奴と対峙した。一方、その東側では烏桓族が勢力を増していたが、建武25年(49年)にその烏桓族も後漢に帰順したので、光武帝は彼らも長城内に移住させて北の脅威にあたらせた。この時、後漢はこの2つの民族を統括・保護するために、使匈奴中郎将護烏桓校尉の官を設置した。

やがて後漢は大規模な遠征を行うようになり、和帝永元元年(89年)、車騎将軍竇憲が率いる後漢・南匈奴連合軍は北匈奴を撃ち、その2年後には北単于を遠く烏孫の地まで追い払った。そのためモンゴル高原は空となり、北の脅威は去ったかに見えたが、今度は東の鮮卑が次第に勢力を増していき、桓帝の時代になって、檀石槐が現れ、かつての匈奴に匹敵するほどの脅威となった。後漢は初め、使匈奴中郎将の張奐を派遣してこれを討たせたが全く歯が立たず、次に懐柔策に出たが相手にされなかった。結局、檀石槐の存命中はどうすることもできなかったが、彼の死後は鮮卑の内紛が起きて自壊していった。

中平元年(184年)、後漢において黄巾の乱が起きると、中国は三国時代に突入し、内乱状態となる。そんな中、北方民族たちは時の権力者に附いて協力したり、中国の文化を取り入れたりした。そしてこの内乱状態の中から台頭してきた曹操は、まず南匈奴を支配下に置き、建安11年(206年)には烏桓を討伐し、それと同時に鮮卑を臣従させた。こうして北方民族は中国の支配下に入ったままに移行する。

西域

前漢の時代に栄えた西域経営も、王莽の失政で途絶えてしまい、中国は後漢が建ってもしばらくは着手できずにいた。その間、西域では莎車国が強盛となり、他の国々を従え、匈奴でさえも手が出せない強国となっていた。そこで建武14年(38年)、莎車王の賢が後漢に朝貢し、ここでやっと西域との国交が復活する。しかし、本格的な経営は困難な状態で、西域都護を派遣することさえできずにいた。実際、西域諸国が莎車王賢の圧政に苦しんで、西域都護を派遣するよう要求してきた時も派遣できず、その結果西域諸国が匈奴に附いてしまった。

後漢が本格的に西域経営を始めるのが、明帝の永平16年(73年)のことで、明帝は北伐を行い、太僕祭肜,奉車都尉の竇固,駙馬都尉の耿秉騎都尉の来苗に北匈奴を討たせ、仮司馬の班超を西域諸国に派遣し、ふたたび西域経営を始めることに成功した。

その後、西域諸国は一斉蜂起したこともあったが、新たな西域都護の班超のもと、安定した西域経営が行われ、しばらくタリム盆地は後漢の勢力下にあった。また、班超は部下の甘英を派遣して、西域の更に西方に向かわせ、現在のシリア近辺まで至らせた。

延熹9年(166年)には大秦国王安敦(詳しくは注参照)の使者を名乗る者が漢の日南郡に到達し[注釈 1]ローマ帝国内の事柄が伝わり、この時期にローマ帝国との間で細いながら交流があったことが窺われる。

朝鮮・日本

漢委奴國王印文

東には高句麗夫余が勢力を張っており、こちらも王莽の対応のまずさにより、一時期離反していたが、光武帝が即位すると率先して朝貢を行ってきた。しかし後漢の統制力が衰えてくると再び離反し、高句麗は玄菟郡を攻撃して西に追いやっている。更に楽浪郡にも攻撃を続け、この地方の覇権を確立した。

後漢書東夷伝の記述で知られるように、この時代には日本列島の人々が中国の王朝と直接交渉していることが知られ、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」金印がこれを裏付けている。


注釈

  1. ^ 大秦はローマ帝国のことで、安敦はマルクス・アウレリウス・アントニヌスもしくは先代皇帝であるアントニヌス・ピウスに比定される。しかしローマ側の記録には使者を派遣したということが載っていないので、この使者と言うのは単なる交易商人に過ぎず、ローマ皇帝の名を名乗っただけではないかと考えられる。

出典

  1. ^ 後漢(ごかん)の意味”. goo国語辞書. 2019年12月9日閲覧。
  2. ^ 『三國志』文帝紀
  3. ^ 柿沼陽平「後漢貨幣経済の展開とその特質」(初出:『史滴』第31期(早稲田大学、2009年12月)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P33.
  4. ^ 柿沼陽平「後漢貨幣経済の展開とその特質」(初出:『史滴』第31期(早稲田大学、2009年12月)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P42-50.
  5. ^ 柿沼陽平「後漢時代における金銭至上主義の台頭」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)P63-101.






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