山本覚馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 07:35 UTC 版)
管見
『管見』(かんけん)は、慶応4年(1868年)6月、覚馬が新政府に宛てて出した(御役所宛てとなっている)、政治、経済、教育等22項目にわたり将来の日本のあるべき姿を論じた建白書である[注 4]。
内容は、思想家・横井小楠が富国・強兵・士道(経済、国防、道徳)の確立を唱えた「国是三論」に酷似しているが、さらに発展させたものである。三権分立の「政体」に始まり、大院・小院の二院制の「議事院」、「学校」、「変制」、封建制から郡県制への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、女子教育を勧めた「女学」、遺産の平均分与の「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国体」、「港制」、「救民」、「髪制」、寺の学校への開放を唱えた「変仏法」、「商律」、「時法」、太陽暦の採用を勧めた「暦法」、西洋医の登用を訴えた「官医」と内容は多岐にわたる。将来を見据え優れた先見性に富んでおり、明治新政府の政策の骨格とも繋がる。
家族・子孫
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fb%2Fb3%2FKakuma_Yamamoto%2527s_tombstone.jpg%2F220px-Kakuma_Yamamoto%2527s_tombstone.jpg)
- 両親
- 弟妹
- 両親は3男3女を儲けるが、1男1女を幼児期に失う。
- 妹・新島八重:慶応元年(1865年)、川崎尚之助と結婚。会津戦争では家族と共に鶴ヶ城に篭城。戦後に尚之助と離別し、明治9年(1876年)に新島襄と再婚。
- 妹・窪田うら:窪田仲八の妻。
- 弟・山本三郎:鳥羽・伏見の戦いで戦死。
- 妻
- 先妻・樋口うら:会津藩勘定方・樋口家の娘。1857年に20歳で29歳の覚馬と結婚。1860年に長女(夭折)、1862年に次女・みねを儲ける。その年覚馬上洛し別居、1871年に八重たちが上洛する際、離縁を求めて会津に残る。
- 後妻・小田時栄[注 5]:1853年生。京都で盲目の覚馬の身辺の世話に13歳より当たっていた。25歳年上の覚馬との間に三女・久栄を儲け、明治4年(1871年)に正式に入籍。不義密通を疑われ、明治19年(1886年)に離縁[注 6]。
- 子女
- 次女・横井みね:文久2年(1862年)生。明治14年(1881年)、横井時雄と結婚。平馬(後述)を儲けるが、明治20年(1887年)死去。
- 三女・山本久栄:明治3年(1870年)生。一時期、徳冨蘆花と婚約するも破談。蘆花の小説『黒い眼と茶色の目』は久栄との恋愛の葛藤を描いている[注 7]。婚約破棄から6年後、覚馬の死から半年後の明治26年(1893年)、23歳で病没。
- 孫で養子・山本平馬:明治15年(1887年)生(諸説あり)。みねと横井時雄の間の一子。生後まもなく母と死別したため祖父・覚馬の養子となる。詳しい生涯は不明[15]。昭和19年(1944年)に死去[15]。平馬の子は格太郎で、幼時に山口家の養子となる。京都市役所に勤務し、各地の消防署長をつとめた[15]。
人物
- 京都では、新門辰五郎の100坪の居宅を36円で買取り居住していた(当時覚馬の月給は45円)。
- 世間の浮華なことを忌み嫌い、「分限相応」が一番大切と説いた。
注釈
- ^ この銃は鳥羽・伏見の戦いには納入が間に合わず、後に紀州藩が引き受け、実験的藩政改革の後に明治新政府に押収されることとなるが、西南戦争で活用されることとなった[5]。
- ^ 他の囚人は土間で寝起きする中、覚馬にだけ床板張りの畳の間があてがわれた。また、余分の夜具と毎日酒一升が与えられるなどの特別待遇だった。
- ^ この時の聴講生として、のちの滋賀県・東京府知事の松田道之、大阪府知事の藤村紫朗がいる
- ^ 書名の「管見」は、「自分の見解」の謙称である。
- ^ 徳冨蘆花の小説『黒い眼と茶色の目』では時恵。
- ^ 『黒い眼と茶色の目』では時栄の不貞が原因とされている。
- ^ 作中では寿代(ひさよ)となっている。
出典
- ^ a b c d e f g 『日本近現代人名辞典』、1113頁
- ^ a b 野口信一. “山本八重子と会津の精神風土(平成21年12月12日)、190頁” (PDF). 同志社大学. 2022年3月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『日本人名大事典』、397頁
- ^ 荒木、118p.
- ^ 荒木、85p.
- ^ a b 荒木、107 - 108p.
- ^ 安藤、276p.
- ^ 「さつま人国誌 会津藩士・山本覚馬と薩摩藩(下)」『南日本新聞』2013年5月20日
- ^ https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/cmsfiles/contents/0000083/83714/No.15.pdf
- ^ a b c d e f g h 『日本近現代人名辞典』、1114頁
- ^ “山本覚馬のThe guide to the celebrated places in Kiyoto ...”. レファレンス協同データベース. 2020年8月23日閲覧。
- ^ 同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年、36頁
- ^ “カトリック河原町教会の洗礼台帳に見る山本覚馬と久栄の洗礼” (PDF). カトリック河原町教会だより (2014年1月). 2020年12月29日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.38
- ^ a b c 『八重とその時代 幕末と明治を生きた人々』
固有名詞の分類
- 山本覚馬のページへのリンク