宮下秀洋 宮下秀洋の概要

宮下秀洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 15:48 UTC 版)

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経歴

1921年に方円社の塾生となるが、半年後に帰郷。再度上京して本因坊秀哉門下となるが、関東大震災で帰郷。日本棋院設立の1924年に呼び戻されて大倉喜七郎の家に書生として住み込み、日本棋院の少年棋士養成制度(後の院生)が設けられるとその第1期生となる。15歳から独立して下宿住いとなり、またこの頃は秀哉の遊歴によく同行していた。1930年(昭和5年)入段。1932年秋期大手合で2等になり二段、1933年春期大手合1等で1934年三段、1935年四段。1934年の中外商業新報の新進争覇戦では10人抜きを達成。1944年五段、同年軍需工場に徴用される。

戦後は1946年秋期の大手合より参加。1948年六段、1949年七段、1953年八段と一気に昇段し「宮下のごぼう抜き昇段」と喧伝され、ライターの宇崎玄々子の命名で「福島の猛牛」と呼ばれた。

1949年には田園コロシアムで行われた日刊スポーツ主催野外早碁選手権で優勝。最高位戦の1953年の八段4名によるリーグ戦で4位、翌年のAクラスリーグで5位となり、1955年からの第1期最高位戦リーグに参加。1954年に王座戦で高川格本因坊と決勝三番勝負を争い、1-2で敗れる。1955年に日本棋院最高段者トーナメント決勝で島村利博を破って優勝。同年の本因坊戦リーグでは島村と6勝1敗の同率となり、決定戦で敗れる。1957年早碁名人戦で坂田栄男に挑戦し、2-1でタイトル獲得、翌年は高川秀格の挑戦を2-0で退けて連覇、1959年に杉内雅男に2-1で敗れた。

1960年、日本棋院では5人目の九段昇段。1961年に開始された第1期名人戦リーグに参加するが、5勝7敗の8位で陥落。1962年に王座戦決勝で加田克司を2-0で破る。1971年早碁選手権戦決勝で藤沢朋斎を破って優勝。

同1971年、娘の鈴枝とともに欧州北米を囲碁指導で訪問。

多趣味で、株や相場などにも手を出していたという。門下に、菅野清規、石橋千濤、時本壱。

タイトル歴

その他の棋歴

参考文献

  • 『前田陳爾・宮下秀洋』(現代囲碁大系10)講談社 1982年
  • 伊藤敬一「思い出の棋士 宮下秀洋九段」(「棋道」日本棋院 1985年1-4月号)



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