太宰治と自殺
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太宰の文学と自殺企図
自殺企図を題材とした作品を通して
1930年11月28日の心中事件に関して、太宰は自らが生き延び、心中相手の田部あつみが亡くなったことについて、「私の生涯の黒点である」と書いている。そして1934年作の「葉」に始まり、晩年の「人間失格」に至るまで、繰り返しこの心中事件をテーマとした小説を書き続けていく[49][239]。小説の内容を実際の心中事件とを安易に結びつけるのは危険であるが[240]、自分だけが生き残ったことは太宰の心に深い傷を残し、生涯、田部あつみへに対する深い思いを持ち続け、それが贖罪の意味も込めて繰り返しこの心中事件を小説のテーマとしていくことに繋がったとの説もある[239][241]。この点に関しては、後年太宰は長女に「道化の華」の主人公、園にちなんだものと考えられる園子という命名をするが、この命名には田部あつみに対する贖罪意識と再生を願う気持ちが投影されているとの見方がある[242]。
一方、贖罪意識や田部あつみとともに自らも死を願ったことは事実であるとしても、現実問題としてこの心中を小説の題材として利用し続けたことを指摘する意見もある[243]。また1930年11月28日の心中事件小説の内容から、それぞれの苦悩を持つ男女が、あるきっかけで一緒になって死を選んだのが心中の実情で、女性を愛したが故の心中ではなく、いわば行きずりの女性を死の踏み台としたものであり、死にたいとの思いの反面、助けられたいとの相反する願望が垣間見えるとの指摘がある[244]。
1935年3月16日の自殺未遂に関しては、この自殺未遂を題材とした「狂言の神」は、「生きるための死」、「死のための生」といった、相反したものの混在を指摘し、1935年当時の青年期の病理を照らし出しているとの意見がある[245]。また「狂言の神」は、1935年頃の希望を持とうにも持てない青年たちのための文学であるとともに、「私、太宰」の自殺未遂の物語でもあり、太宰の「死にたい死にたい」とは、心底に込められた「生きたい生きたい」の逆説的な表現であり、生きる希望を失った人たちが生きるために読む物語であるとの指摘もある[246][247]。
1937年3月25日の心中未遂については、題材として執筆された「姥捨」から、まず実際の心中と同様に、主人公である太宰をモデルとした嘉七が離婚の口実として心中を利用しようとしていることについての後ろめたさが描かれているとの指摘がある[248]。また「姥捨」に描かれている小山初代との心中未遂と離別を経て、太宰は行き詰まりを見せていた文芸活動、実生活をリセットして再出発を果しており、「姥捨」は戦後期に至る太宰の作品の出発点に当たるとする見方もある[249][250]。
しかし「姥捨」は心中未遂と離別、そこからの再出発を描いた太宰の「死と再生」を描いた再起の物語であることを認めつつも、他者との関係性を保つことが出来ないという根源的な問題点を解決することなく行われた「再起」は、きわめて脆弱なものであったとの指摘がなされている[251][252][253]。
自殺と太宰の文学
流行作家であった太宰の心中は、マスコミに大きく取り上げられた。取り上げ方も単なる作家の自殺に止まらず、自殺一般についての言及へと広がり、太宰の死をもって戦後の第一次混乱期が終焉したとの論評もなされた。また太宰の小説を枕元に置いて後追い自殺を図る若者も現れた[190]。
禅林寺の太宰の墓前では太宰の弟子に当たる作家の田中英光が自殺しており、その他にも墓前での自殺者や自殺未遂者が出ている[254][255]。水上勉は太宰の死をきっかけとしていったん文学の世界に見切りをつけ、約10年間、新聞社や行商で生活した[254]。
太宰の死に関して文学関係者から多くの意見が発表された。太宰の死の直前、福田恆存は「道化の文学」で「太宰治とは芥川龍之介の生涯と作品系列をいわば逆に生きてきた」と定義した上で、「その日その日が晩年であるような黄昏のうちで、いくたびか自殺を図り、その都度生きよと現世に突き戻された」と見なしていた[190][256]。太宰の死後発表された中では、檀一雄が太宰の死と文学とを直接的に結び付けた代表的な人物であった。壇は「文藝の完遂」において太宰の死を「疑いもなく彼の文藝の抽象的な完遂の為」であり、「文藝の壮図の成就」であるとした上で、「太宰の完遂しなければならない文藝が、太宰の身を喰った」と評価した[257][258]。伊藤整や平野謙もまた太宰の死と文学とを結びつけた議論を展開した[190]。
また後年の研究でも、安藤宏は太宰の1948年の手帳に記された「人間失格」、「如是我聞」の創作メモを分析した結果として、現実の対人関係がストレートに作品に結び付けられていて、太宰本人と作中の人物との距離感を喪失しつつあり、創作上の重大な危機に陥っており、いわば文学上の自殺行為へと進んでいたと主張している[259]。
その一方で、坂口安吾は「不良少年とキリスト」において、太宰がめちゃくちゃに酔って、言いだして、山崎富栄がそれを決定的にしたと、いわば酔っぱらた上で出できた死の話を、富栄が決定的な役割を果たして心中に至ったとの、文学とは直接的な関係はないとする見方を示した[190][260]。
遺書と遺した短歌
太宰は妻、美知子宛の遺書を遺していた。また遺書の下書きも発見された。わら半紙9枚に書かれた遺書は、「津島修治 美知様 お前を誰よりも愛していました」と結ばれていた。遺書の本文、下書きはともに美知子本人に渡されたが、下書きがマスコミによって報道された。
あなたを きらいになったから 死ぬのでは無いのです 小説を書くのが いやになったからです みんな いやしい 慾ばりばかり 井伏さんは悪人です。
報道された遺書の末尾は、このように結ばれていた[注釈 12][196][261]。
この「井伏さんは悪人です」との一節は反響を呼ぶことになり、井伏本人もマスコミのインタビューに「思い当たる節は無い」と答える羽目になった[196]。
太宰が「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」と書いた色紙を遺された伊馬春部は、この歌が太宰の煩悶と重なり合い、生身の太宰が迫ってくるようであり、晩年、太宰の身も心も濁りににごってしまったと述べている[262]。中井英夫は太宰が遺書として選んだこの短歌には、太宰が心から憎んだ人間の汚さ、けち臭さ、陰謀、嫉視に取り囲まれながら、いつか藤の花が高貴な光を映し出すと信じていたにも関わらず、その希望を叩きのめすかのように降りしきる雨についに耐えきれなくなった救いようもない心性、病み疲れた精神を余すところなく現わしているとした[263]。また日置俊次は遺書と短歌の内容から、濁りににごった文壇に対する絶望が見られると解釈している[264]。
注釈
- ^ 日本の作家の中で太宰治以外に自殺未遂を繰り返した人物としては、4回服毒自殺未遂を繰り返した鶴見俊輔がいる[4]。なお、鶴見は2015年に肺炎で死去している。
- ^ 小山初代は太宰と入籍しなかった。つまり戸籍上は太宰と小山初代は婚姻関係は無かった。なぜ入籍しなかったのかは不明であり、太宰自身、入籍していたものと思っていた[59]。
- ^ 結局実家からの仕送りは、戦後の猛インフレで決められていた仕送り額では意味が無くなり、更に太宰が流行作家となったたため、太宰が辞退するまで継続された[100]。
- ^ 山崎富栄も酒豪で愛煙家であり、この点でも太宰と気が合った[134]。
- ^ 山崎富栄はさっさとてきぱきと仕事をこなす姿から、田河水泡の漫画「スタコラサッチャン」にちなんで学生時代からさっちゃんとのあだ名が付けられていて、太宰もさっちゃんと呼びかけるのが普通であった[142][143][144]。
- ^ 結核を専門とした呼吸器科医浅田高明は、当時販売開始されたばかりのサルファ剤が太宰の膿瘍に全く効かなかったことから、サルファ剤が効かない結核菌が膿瘍の原因ではないかと推察している[170]。
- ^ 「青ヶ島大概記」の執筆に太宰は立ち会っており、折口信夫の文章をそのまま引き写した部分に関して、太宰は「井伏鱒二選集」第二巻の編集後記で「井伏の天才を感じて戦慄した」と紹介している[194][195]。
- ^ 太宰の没後、税務署は昭和22年の所得額を10万円あまりに訂正した[199]。
- ^ 太宰の妻、美知子は、税金問題に関しては全て自分に一任されていたため、太宰の自殺と税金問題は関係が無かったのではないかと考えている[203]。
- ^ 太宰と山崎富栄の投身場所にあった青い小瓶には青酸カリが入っていたとの説があるが、当時、取材をした野平健一は、インタビューで青酸カリ入り小瓶説は臆測であり、根拠がないとしているため、青い小瓶との記述とする[210]。
- ^ 野原一夫は、太宰と山崎富栄の腰を結び付けていた赤い紐を切ったのは、太宰が情死したとの世間からの好奇の目から守ろうと思ったとともに、太宰を奪われたとの思いに駆られた怒り、憎しみの気持ちがあったと述懐している[215]。
- ^ 遺族が所有している太宰の遺書と下書きは、遺族の意向により非公開の部分がある[261]。
- ^ 太宰の死後、多くの在庫を抱えていたヴィヨンの妻が飛ぶように売れたため、筑摩書房は経営の危機から脱することが出来た[290]。
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