田部あつみの境遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
1930年11月28日の心中事件で亡くなった田部あつみの本名は田部シメ子であったが、その名を嫌ったため、早くからあつみと名乗っていた。学業優秀でしかも器量良しで知られたあつみは、広島市立第一高等女学校に入学するも、厳格な校風が性に合わず退学してしまう。 女学校を退学した田部あつみは、1930年3月に広島の繁華街に新規開店した喫茶店のウエイトレスとして就職する。開店後、美貌の田部あつみ目当てに喫茶店に通う男性客が現れるようになった。田部あつみはそのような客の一人の高面順三と親しくなり、やがて同棲生活を始めた。高面順三は新劇の舞台俳優になる夢を持っており、1930年夏、二人は上京して高面順三の友人宅で生活することになった。 上京に際して高面順三は就職先のあてをつけていて、働きながら新劇俳優の道を目指す予定であった。しかし予定していた就職先に就けず、しかも演劇界は著しい不況に見舞われていた。高面順三は就職先を探すものの不況で失業者が溢れていた状況下でなかなか見つからない。そのような中で、9月頃から田部あつみは、同居していた高面の友人の妻が働いていた銀座のカフェで一緒に働くようになった。カフェの客の一人が太宰であった、太宰はカフェに通い詰めるようになり、やがて二人は仲良くなって一緒に演劇や芝居を見に行くようになった。 11月後半、高面順三は広島へ戻ろうと提案した。田部あつみは高面の提案に反対し、口論となった。11月26日、太宰は田部あつみとともに浅草で遊び、太宰の友人中村貞次郎は呼び出しを受けて田部あつみを紹介された。その晩、太宰と田部あつみは帝国ホテルに泊まった。
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