大岩山大五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/25 08:36 UTC 版)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 大岩山 → 東岩 → 大岩山 雷五郎 → 大岩山 大五郎 → 大岩山 金次 → 大岩山 大五郎 → 羽衣 天昇 → 大岩山 金四郎 → 大岩山 金次 | |||
本名 | 船橋 金次 | |||
生年月日 | 1919年5月20日 | |||
没年月日 | 1980年12月5日(61歳没) | |||
出身 | 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区) | |||
身長 | 179cm | |||
体重 | 120kg | |||
BMI | 37.45 | |||
所属部屋 | 立浪部屋 | |||
得意技 | 右四つ、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭9枚目 | |||
生涯戦歴 | 196勝252敗(39場所) | |||
幕内戦歴 | 91勝143敗(17場所) | |||
優勝 |
十両優勝1回 幕下優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1937年5月場所[1] | |||
入幕 | 1946年11月場所[1] | |||
引退 | 1954年3月場所[1] | |||
引退後 | 年寄・鳴戸 | |||
備考 | ||||
2014年11月9日現在 |
来歴・人物
17歳の時に立浪部屋へ入門し、1937年5月場所で初土俵を踏んだ。
序ノ口当初より「大岩山」を名乗り、以降は「東岩」や「羽衣」に改名した時期もあったが、いずれも短期間で元の「大岩山」に戻している。
その前後、1944年11月場所で新十両昇進、1946年11月場所で入幕と順調に出世。
力持ちであり右四つ左上手になると強く、稽古場では抜群に強かったが、極度の近視というハンディもあって離れて取る相撲を得意とした力士には苦戦した[1]。
幕内で最も活躍したのは1952年5月場所で、三賞受賞は逸したが12勝3敗と大勝ちし、優勝争いにも参加している。
幕内上位への進出は果たせなかったものの、弓取り力士として人気があり、入幕してからも弓取り式を担当していた[1]。
元大相撲力士である力道山光浩(最高位・関脇、当時はプロレスラー)が大阪府立体育館(1953年3月場所)で撮影した、大岩山の弓取り映像が現存している[2][1]。
1954年3月場所限りで引退後は、年寄・鳴戸を襲名し、立浪部屋付きの親方として後輩達を指導。日本相撲協会では、相撲教習所の指導員を永年に亘って務めた他木戸主任を務めたが、晩年は糖尿病から脱疽となり闘病生活を送り、その期間に鳴戸の名跡を大関貴ノ花に譲渡する契約をしていた。1980年12月5日、敗血症のため東京都港区内の病院で逝去。61歳没。
エピソード
- 現役時代から同部屋の若羽黒とは仲が良く、1965年7月に神奈川県三浦市の油壺観光ホテルで行われた、彼の断髪式にも参加している。まだ独身だった頃の若羽黒が部屋の許可を得ずにマンション暮らしを始めた際には既に年寄・鳴戸を襲名していた大岩山が私生活を管理していたといい、この生活ぶりを「鳴戸部屋」と揶揄する者もいた。
- 一時期、「羽衣天昇(はごろも てんしょう)」という珍名を名乗っていた[1]。
主な戦績
- 通算成績:196勝252敗 勝率.438
- 幕内成績:91勝143敗 勝率.389
- 現役在位:39場所
- 幕内在位:17場所
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回(1945年6月場所)
- 十両優勝:1回(1951年5月場所)
- 1 大岩山大五郎とは
- 2 大岩山大五郎の概要
- 3 場所別成績
- 4 改名歴
固有名詞の分類
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