南部信鄰 生涯

南部信鄰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 01:35 UTC 版)

生涯

安永5年(1776年)11月1日、小普請支配を務めた石高5000石の旗本・南部信喜(肥前守)の子として誕生。

寛政12年(1800年)、父の死去により家督を継ぐ。なお、南部政信(南部重信の子)を祖とする旗本南部家当主としては5代目にあたる。文政2年(1819年)12月、父の従兄弟で本家盛岡藩主・南部利敬より、幕府の許可の下に加増を受けて、内分ながら1万1000石の定府大名として盛岡新田藩(のちの七戸藩)を立藩した。

文政3年(1820年)に利敬が死去し、はとこで幼少の南部吉次郎(利用)が本家を継承したので、その補佐のために幕府の許可をもらって盛岡に下向して、盛岡藩政に参画する。ところが、吉次郎利用は文政4年(1821年)8月、将軍への御目見を済ませないまま不慮の死を遂げた。藩重役たちは、比較的年齢も近く、風貌もよく似ていた善太郎を身代わりに立て「利用」として擁立し、9月に善太郎が本家家督を継いだ。そして11月15日に11代将軍・徳川家斉と謁見して藩主として認められたが、その直後に信鄰は46歳で死去した。なお、この件に信鄰がどこまで関わったかは不明である。

家督は長男・信誉が継いだ。

系譜

父母

  • 南部信喜(父)
  • 南部信起[1]の娘(母)

正室、継室

  • 水野忠敞の娘(正室)
  • 近藤寿用[2]の娘(継室)

子女

参考文献

  • 「岩手県史 第五巻」[要文献特定詳細情報]
  • 石井良助「編年江戸武鑑 文化武鑑7」(柏書房

  1. ^ 南部利幹の次男
  2. ^ 登助


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