南部信鄰
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生涯
安永5年(1776年)11月1日、小普請支配を務めた石高5000石の旗本・南部信喜(肥前守)の子として誕生。
寛政12年(1800年)、父の死去により家督を継ぐ。なお、南部政信(南部重信の子)を祖とする旗本南部家当主としては5代目にあたる。文政2年(1819年)12月、父の従兄弟で本家盛岡藩主・南部利敬より、幕府の許可の下に加増を受けて、内分ながら1万1000石の定府大名として盛岡新田藩(のちの七戸藩)を立藩した。
文政3年(1820年)に利敬が死去し、はとこで幼少の南部吉次郎(利用)が本家を継承したので、その補佐のために幕府の許可をもらって盛岡に下向して、盛岡藩政に参画する。ところが、吉次郎利用は文政4年(1821年)8月、将軍への御目見を済ませないまま不慮の死を遂げた。藩重役たちは、比較的年齢も近く、風貌もよく似ていた善太郎を身代わりに立て「利用」として擁立し、9月に善太郎が本家家督を継いだ。そして11月15日に11代将軍・徳川家斉と謁見して藩主として認められたが、その直後に信鄰は46歳で死去した。なお、この件に信鄰がどこまで関わったかは不明である。
家督は長男・信誉が継いだ。
系譜
父母
- 南部信喜(父)
- 南部信起[1]の娘(母)
正室、継室
- 水野忠敞の娘(正室)
- 近藤寿用[2]の娘(継室)
子女
参考文献
固有名詞の分類
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