千早城の戦い 考察・評価

千早城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 11:38 UTC 版)

考察・評価

千早城復元模型/千早赤阪村立郷土資料館

参加人数

『太平記』巻7「諸国の兵知和屋へ発向の事」では、直接千早城攻めに向かった180万に、赤坂城・吉野城を攻略し終えた20万が合流して、計200万の鎌倉幕府軍が千早城を攻めたとされている[18]。しかし、小学館の『赤坂・千早城の戦い』では「誇張があるだろう。特に幕府軍の数はあやしい、『二十万(赤坂城の戦いの兵数)、百万』ではなく『数万、十万』ぐらいが妥当なところだろう」とされており、『太平記』の誇張を指摘している[19]

当時の鎌倉幕府軍の参加部隊は一次史料である『楠木合戦注文』に記載があり、そこから中世の軍事における人員構成を考慮すると、ある程度実際の参加兵数を概算することができる。以下は、新井孝重の考察[4]に基づく。

  • 御家人戦力(鎌倉幕府の正規軍)
    • 地方御家人
      • 鎌倉幕府が千早城の戦いのために御家人を徴兵したのは、畿内・北陸・山陰・山陽・南海の計26ヶ国である[4]
      • 九州方面では、一国につき30人程度の御家人を徴兵したことが知られている[4]。千早城の戦いでも同程度だったと仮定する[4]
    • 鎌倉御家人
      • このとき在京大番に服した鎌倉御家人の人数は37人だった[4]
    • 御家人ごとの動員戦闘員数(郎党)は差が非常に大きく、ここが一番計算の困難なところであるが(相模本間氏結城氏は一人の御家人につき100から200もの戦闘員を引き連れた)、平均的に見ればだいたい20人前後だったと考えられる[4]。また、御家人ごとに、馬丁・荷物持ちなどの2人ないし3人程度の下人(非戦闘員)を引き連れていた[4]
    • (30 * 26 + 37) * (1 + 20 + 2.5) = 19199.5である。よって、御家人は19,000前後の兵力[4]
  • 得宗御内人戦力(北条得宗家の私兵)
    • さらに、河内方面の軍奉行(いくさぶぎょう)長崎高貞内管領長崎高資の弟)を始め、北条得宗家の直属軍団が参加した[20]。各軍奉行は1,000程度の兵力を保持していたと言われ、河内方面の軍奉行の高貞だけではなく、6人前後の軍奉行が参戦していたから、得宗戦力は6,000前後である[4]

以上から、千早城の戦いに参加した鎌倉幕府軍は、正規軍19,000+北条得宗家私兵6,000で、おおよそ25,000(1割程度の非戦闘員を含む)と概算することができる[4]

その他

源平以来、馬上弓矢をとって戦っていたが、徐々にその慣習は廃れていき、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては市街戦山岳戦が中心の戦となっていった。そうなると徒立ちや弓矢で戦う、徒歩斬撃戦に騎馬隊が続くというのが主流になってきた。しかし、山上に築かれた城への攻撃となると、馬は有効に使用できない。この戦い以前は、本格的な攻城戦は数が少なく、山城への攻撃となるとこの合戦が初めてに近い。籠城側は、弓を射かけ、石や木を投げつけるのに対して、攻城側は城壁を目指しひたすら攻め登るか、水の手を切るか兵糧攻めによる持久戦しかなかった。そのため、城内に水源があった千早城は鎌倉幕府軍に対して落城することはなかった[注釈 2]

幕府方は赤坂城を落とした後、楠木正成の1,000人の兵が守る千早城を大軍で包囲したが、わずか1,000人たらずの兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放った、などの常識にとらわれない奇策を使ったからだといわれる。また、この情勢を見た地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったからでもあるという。実際、楠木軍の兵糧が不足すると、野長瀬庄司の野長瀬盛忠が千早城に兵糧を運び入れていた、という記録がある[21]

幕府の大軍がこの戦いで釘付けにされたことで、正成の活躍に触発された勢力によって各地に倒幕の機運が広がり、有力御家人足利尊氏新田義貞の離反もあって幕府は滅亡した。楠木氏は後醍醐天皇が開始した建武の新政においても重用された。

歴史学者の呉座勇一は、大軍をもってしても千早城を落とせない、楠木正成一人に振り回される幕府の体たらくを人々が目にしたことで幕府、北条氏の”不敗神話”が崩れていった。その結果、不敗を支配の正統性としてきた北条氏は人心を失い、それまで溜まってきた不平不満が爆発し鎌倉幕府が崩壊した、と考察している[22]


注釈

  1. ^ 『徴古雑抄』所載『和泉国松尾寺文書』による[2][3]
  2. ^ この「水資源の保全」について、黒田俊雄は『日本の歴史8 蒙古襲来』で「昨今の東京都の水道局も手本にすべき」と書いている(中公文庫改版 ISBN 978-4122044661、506-507p)。底本が発行された1965年当時の上水道の状況(渇水・断水など)がうかがわれる。

原文

  1. ^ a b 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[1]

出典

  1. ^ 藤田 1938, p. 128.
  2. ^ a b 藤田 1938, p. 148.
  3. ^ a b 長谷川 1994, p. 478.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 新井 2011, pp. 123–124.
  5. ^ [[#CITEREF|]].
  6. ^ a b 『太平記』巻六「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」
  7. ^ a b c d e 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」
  8. ^ 千葉氏: 鎌倉・南北朝編、251頁
  9. ^ 高石市史, 第 2 巻、552頁
  10. ^ a b c d e f 『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」
  11. ^ 『日本の歷史: 蒙古襲来』、510頁
  12. ^ a b 『太平記』巻七「吉野城軍事」
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『太平記』巻七「千剣破城軍事」
  14. ^ 『太平記』巻七「先帝船上臨幸事」
  15. ^ a b c d e 『太平記』巻九「千葉屋城寄手敗北事」
  16. ^ 峰岸・35-36頁
  17. ^ 山本・33頁
  18. ^ 長谷川 1994, p. 337.
  19. ^ 小学館『赤坂・千早城の戦い』
  20. ^ 新井 2011, pp. 133–134.
  21. ^ 『野長瀬家系図』
  22. ^ 呉座 2014, pp. 97–102.






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