千早城の戦い 戦いに至るまで

千早城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 11:38 UTC 版)

戦いに至るまで

1331年(元弘元年、元徳3年)、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚すると、天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成河内赤坂において呼応した(元弘の乱)。鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰された。一方、正成は10月の赤坂城(下赤坂城)の陥落後、一時姿を消していた。

1332年(元弘2年、正慶元年)4月、正成は赤坂城を奪い返し、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を帰順させることに成功した[6]。そして、湯浅を味方につけた楠木軍は和泉・河内の両国を瞬く間に制圧した[6]

北条高時は畿内において反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に関東8ヶ国の大名からなる30万余騎の追討軍を派遣した。北条一族の主な武将は阿蘇治時名越宗教大仏貞直、大仏宣政、伊具有政、大仏家時らであった[7]。それ以外は、長崎高貞、長崎師宗、千葉貞胤千葉胤貞工藤高景二階堂貞藤佐々木清高小山高朝結城親朝らである[7]。また、河野通盛が四国勢を率いて大船300艘で尼崎に到着したのをはじめ、周防、長門、甲斐、信濃や北陸道7ヶ国の軍勢も上洛した[7]

正成は赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築いた。金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙し、上赤坂城には平野将監楠木正季以下300兵を守備隊とした。

1333年(元弘3年、正慶2年)1月晦日、幕府軍は軍を三手に分け、吉野、金剛山、そして赤坂に向かわせた[7]。吉野には二階堂貞藤が、金剛山には大仏家時が[8][9]、赤坂には阿蘇治時がそれぞれ向かった[7]


注釈

  1. ^ 『徴古雑抄』所載『和泉国松尾寺文書』による[2][3]
  2. ^ この「水資源の保全」について、黒田俊雄は『日本の歴史8 蒙古襲来』で「昨今の東京都の水道局も手本にすべき」と書いている(中公文庫改版 ISBN 978-4122044661、506-507p)。底本が発行された1965年当時の上水道の状況(渇水・断水など)がうかがわれる。

原文

  1. ^ a b 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[1]

出典

  1. ^ 藤田 1938, p. 128.
  2. ^ a b 藤田 1938, p. 148.
  3. ^ a b 長谷川 1994, p. 478.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 新井 2011, pp. 123–124.
  5. ^ [[#CITEREF|]].
  6. ^ a b 『太平記』巻六「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」
  7. ^ a b c d e 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」
  8. ^ 千葉氏: 鎌倉・南北朝編、251頁
  9. ^ 高石市史, 第 2 巻、552頁
  10. ^ a b c d e f 『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」
  11. ^ 『日本の歷史: 蒙古襲来』、510頁
  12. ^ a b 『太平記』巻七「吉野城軍事」
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『太平記』巻七「千剣破城軍事」
  14. ^ 『太平記』巻七「先帝船上臨幸事」
  15. ^ a b c d e 『太平記』巻九「千葉屋城寄手敗北事」
  16. ^ 峰岸・35-36頁
  17. ^ 山本・33頁
  18. ^ 長谷川 1994, p. 337.
  19. ^ 小学館『赤坂・千早城の戦い』
  20. ^ 新井 2011, pp. 133–134.
  21. ^ 『野長瀬家系図』
  22. ^ 呉座 2014, pp. 97–102.






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