北条幻庵
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幻庵覚書
『幻庵覚書』は、永禄5年(1562年)に、氏康の娘(氏康の養女となった幻庵の実の娘[23][5])が武蔵国荏原郡世田ヶ谷の吉良氏朝に嫁ぐ際に、幻庵が「おぼえ」として記して持たせた礼儀作法の心得の覚え書き[24]。萩原龍夫は、関東の武士の家庭生活を示す風俗上貴重な史料と評している。『世田谷区史料 第2集』(東京都世田谷区、1959年)に自筆本の翻刻を載せ、萩原『北条史料集』にも注を付して転載されている[25]。
呼び方
黒田基樹は「幻庵の正確な正式名称は『長綱』と『幻庵宗哲』であり、幻庵という呼び方は正しくない」と主張し、自身が執筆した『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年)では幻庵ではなく「宗哲」で項目を立てている。
脚注
参考文献
- (六巻本)『北条記』 - 『北条史料集』萩原龍夫(校注)、新人物往来社〈戦国史料叢書〉、1966年。
- 三浦浄心「北条五代記」柳川昌紀(翻刻)『仮名草子集成 第63巻』東京堂出版、2020年。
- 黒田基樹『北条早雲とその一族』新人物往来社、2007年。ISBN 978-4-404-03458-8。
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4-86403-289-6。
注釈
出典
- ^ 『系図纂要』
- ^ 黒田 2007, pp. 33–35.
- ^ 黒田 2007, pp. 34-35、150.
- ^ 黒田 2007, pp. 156.
- ^ a b 黒田 2007, pp. 160.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』〈学研M文庫〉2007年、304-308頁。
- ^ 北条史料集, p. 77, 注21.
- ^ 『小田原開府五百年』小田原城天守閣、2018年、22-23頁。
- ^ 『北条記』には天文6年とあるが、『快元僧都記』によると天文7年(北条史料集, p. 77, 注19)
- ^ 『北条記』巻2(21)「小弓義明合戦之事」(北条史料集, p. 71)
- ^ a b 黒田 2018, p. 172.
- ^ 黒田 2018, p. 189.
- ^ 黒田 2018, pp. 191–192.
- ^ 黒田 2018, p. 170.
- ^ 『小田原衆所領役帳 戦国遺文後北条氏編別巻』東京堂出版、1998年。ISBN 978-4-490-30546-3。に全文収録。
- ^ 黒田基樹「戦国時代の侍と百姓」『iichiko』No.111、2011年。
- ^ 『北条記』巻4(6)「信玄小田原出張之事」(北条史料集, p. 137)
- ^ a b 『北条記』巻4(7)「蒲原落城之事」(北条史料集, pp. 142–143)
- ^ a b 『北条記』巻4(8)「三郎を越州へ養子の事」(北条史料集, pp. 144–145)
- ^ 『北条記』巻4(8)「三郎を越州へ養子の事」・巻4(15)「越後三郎自害之事」(北条史料集, pp. 146, 158)
- ^ 『北条記』巻4(8)「三郎を越州へ養子の事」(北条史料集, p. 146, 注8)
- ^ a b c d e 『北条五代記』寛永版巻8(4)「徳斎碁に興有事〔付〕北条幻庵事」(『仮名草子集成 第63巻』東京堂出版、2020年、13-14頁。)
- ^ 黒田 2018, pp. 179–180.
- ^ 北条史料集, pp. 440.
- ^ 北条史料集, pp. 440–447, まえがき.
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