円広志 人物・エピソード

円広志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 06:23 UTC 版)

人物・エピソード

芸名について

  • 芸名の「円広志」は、同級生が付けたもので、「三角四角の男が年齢を重ねることによって、やがてす人間になっていく」という意味[18]。本人は「円(えん=銭)を広く志し、大金を稼ぐという意味ではない」とことさらに否定し、ギャグとしている。

「とんでとんで」

  • 「夢想花」以外の曲が全国的にほとんど知られていないため、『行列のできる法律相談所』や『クイズ!紳助くん』などで島田紳助によく「一発屋」、「世界歌謡祭グランプリ、今じゃ誰もが知らんぷり」などと弄られている。また「そら円さんは歌手やもん、ヒット曲いっぱい出してはんねんで。『夢想花』・『とんでとんで』・『まわってまわって』…」「全部一緒やないかい!」や「『とんでとんで』って歌って、アンタが飛んでいったな」という上沼恵美子とのやりとりも定番である。一般人に円広志の代表曲を答えさせても正式タイトルの「夢想花」でなく『とんでとんで』、『まわってまわって』と答える人が多い。

交友関係

島田紳助

  • 「夢想花」以降、ヒットに恵まれず、歌手として長年鳴かず飛ばずだった状況で、傷心で東京から大阪に戻った円のもとに、突然今まで面識のなかった紳助から一通の手紙が届いた。手紙の内容は「あなたは売れてないにも関わらず道をまっすぐ歩くのはやめてください。下を向いて悲しそうに歩いて下さい。テレビでも出るときは悲しそうな顔をして下さい」という挑発的な内容であり、これに激怒した円は、当時紳助が大阪で生放送をしていた毎日放送のスタジオに「どういうことやねん!」と直接怒鳴り込む。しかし紳助は謝罪するどころか「だって本当のことじゃないですか?」と応戦。それに対して円も「お前もサンダルみたいなアゴしとるやないか!」と応酬し大喧嘩を繰り広げる。これが聴取者から注目され、さらにテレビ局のプロデューサの耳にも入り、この大喧嘩がきっかけでテレビ出演の依頼が殺到することになる。これは、紳助は以前から円の持っているトークスキルを見込んでおり、傷心している今の円の状況では普通にテレビ出演を依頼しても断られると考え、あえてこのシチュエーションになるように仕組んだものであった。この大喧嘩によってトークも出来るタレントとしての円を認知させ、結果として円はテレビ業界にタレントとして再浮上することとなった[19]。後に円は「今の自分がいるのは島田紳助のお陰であり、紳助は最も尊敬する恩人」と語っている。
  • 円は紳助が司会を務めていた『行列のできる法律相談所』に準レギュラーとして出演。その他、『クイズ仕事人』、『クイズバトルロイヤル待ったあり!』、『クイズ!紳助くん』など、紳助が司会の番組に頻繁に出演していた。

やしきたかじん

  • やしきたかじんがパーソナリティを務めた ラジオ番組『聞けば効くほど やしきたかじん』金曜日にレギュラーゲストとして出演。たかじんとともに即興で漫才を披露して、弾き語りを行っていた。たかじんと円の丁々発止のトークは評判を呼び、裏番組の聴取率を抜き去って、平日昼の時間帯のラジオ番組の中で聴取率トップを獲得した。たかじんが全国ツアーをまだ行っていなかった頃、コンサートで定番ゲストとして出演して、コンビで漫才を披露したり、円自身が歌を披露したりしていた。「聞けば効くほど…… 円広志!」と大阪厚生年金会館大ホールの3階の客席から、スポットライトを浴びて登場したことがある。
  • 2007年6月15日にシアターBRAVA!での桂雀々三十周年記念イベント「雀々十八番」(やしきたかじんオールプロデュース)で20年ぶりに音曲漫才を披露した。

aiko

  • aikoの父親と友人関係にあり、aikoのデビュー前に父親から相談され、苦労するからと歌手になることを反対していた。しかし、その後aikoの出すシングルがヒットを連発した。この友人関係もあって円は、aikoの父親が経営しているスナックの常連客である。

趣味

プロレス

プロレスの大ファンで、かつて1981年頃に月刊明星にて「プロレスとんで見聞録」というタイトルのエッセイを連載した事もある[1]

特にジャイアント馬場を崇拝し、かつて日本テレビの「オシャレ30・30」に出演した時には、馬場への想いを熱弁したこともある。1994年に、当時中京テレビでレギュラー出演していた「ヴィヴィアン」の企画で馬場と対面した際には、本人から愛用の革靴をプレゼントされた。

その馬場に対する愛情の反面、アントニオ猪木ファンを嫌悪しており、猪木ファンから馬場ファンであることを揶揄されると非常に根に持つ。後年こそ緩慢な動きで他芸人からネタにされたレスラーであったが、オールドファンから見た場合、デビュー当初は元プロ野球投手、マット界のヒールで凱旋などの経歴を持つ上にプロレス活動当初は筋骨隆々の体躯でスピーディーな試合で知られていた。円もその頃から観戦した一人で、その当時の馬場のプロレススタイルをリアルタイムで体験している層の一人であり崇拝と憧憬、驚嘆、畏怖を馬場に投影している。

1999年1月22日、大阪府立体育会館での三沢光晴vs川田利明の三冠戦に円は訪れており、川田が三沢に放った三冠パワーボム(垂直落下式パワーボム)に度肝を抜かしている観客の円も、テレビ放送分に映っていた(この試合から9日後、馬場は肝不全により、この世を去った)。

『クイズ!紳助くん』で、紳助が馬場をネタにした話をすると、円が怒るといったパターンがよくあった。

財テク

  • 非常に倹約家で、月に2万円位しか使わない。食事も、局から出される弁当の他は、コンビニおにぎり程度で、たまに食べる親子丼が大変なごちそうであるという。
  • ライブドア株300万円を購入した直後、証券取引法違反容疑でライブドア社に地検の捜査が入り株価が連日のストップ安(ライブドアショック)となり、なす術のない円はただ咆哮するだけだったという。

その他の趣味

  • プロ野球の巨人のファンである。
  • 蛍光ペンを使った独特のタッチの絵画を描いている。重ね塗りなどでの効果で、水彩墨彩のような透明感と油彩のような力強い混色が共存する手法で風景画を描いている。

経営者として

  • 円は大阪・名古屋でレンタル音楽スタジオ「studio246」を創業・経営している。名前は「いつかまた東京で活躍しよう」という思いを込めて東京を起点とする国道246号から取っており、自身もこのスタジオでデモなどのレコーディングを行っている。テレビ出演時などに、同スタジオのグッズでもある「246」と書かれた缶バッジを胸につけている。バッジはstudio246全店で無料で貰うことができ、100回、246回記念のバッジも存在する。
  • かつてアマチュア時代にstudio246を利用していたプロミュージシャンにHysteric Blueなどがいる。

パニック障害

  • 46歳の時(1999年頃)、突然めまいや脂汗が出るなどの症状に襲われ、病院でパニック障害と診断された[注釈 3]。しばらくは何とか仕事を続けたが次第に人と会うことが怖くなり、全ての仕事を降りることを考えた[4]。しかしレギュラー出演していた番組の司会者である島田紳助や上沼恵美子から「番組の席は空けておくから、安心して治して帰っておいで」などと告げられ、一時的に降板という形となった[4]。上沼からは、休業中の番組内で「円さんは、最近貧乏になってぼろぼろになっています」などと敢えてネタにし、視聴者に忘れられないよう笑いを交えて気遣ってくれたという[4]
  • 休業中に症状は悪化し、一人でいることに強い恐怖心を抱いたため、セカンドハウスから妻がいる自宅で暮らし始めた[注釈 4]。当時は体調が戻らない焦りから自暴自棄になり、自宅で酒の瓶をぶちまけるなど荒れることもあった[注釈 5]。幸い処方された薬が効いたこともあり、数ヶ月後レギュラー番組に復帰した[注釈 6]
  • [注釈 7]予期不安は抱えたままで、対外的な体裁を考えてパニック障害を隠していた。しかしながら不調時の説明や誤解の釈明をする煩わしさから、周囲に理解してもらうため自分の病状を公にした。以後は、NHK教育テレビなど健康・福祉番組で体験談を語る機会も多い。
  • 2005年8月27日・28日放送の日本テレビ『24時間テレビ28「愛は地球を救う」』でチャリティーランナーの丸山和也の応援に来た円は、日本武道館で宙づりにされ「夢想花」を歌った。武道館で歌うのは(1978年の『世界歌謡祭』出場以来)27年ぶりだったという。先述のパニック障害から、この企画は病気の再発、悪化の可能性もあった危険な企画だったが、円はそれに挑戦。宙を舞うことは、病気を克服したことのアピールの意味も込められていた。なお、2008年、2014年の同番組にも出演し「夢想花」を歌ったが、その回は宙に舞わなかった。

家族、夫婦生活

  • 既婚で、二人の娘[4]と孫がいる。妻は全日空の社員で伊丹空港に勤務していた[9]。円と妻はZOOM解散後の1977年に結婚したが、「夢想花」が売れるまでは「ひも生活になりました[9]」という。なお、仕事の都合上、20年以上別居しているという。倹約家である円は、その反面、妻の誕生日には、280万円の腕時計など高額なものをプレゼントしている。
  • 高校の同級生だった妻とは大学時代から付き合い、卒業後に結婚。フリーター時代の生活は、短大を卒業して先に就職していた妻が家計を支え、結婚式や新婚旅行の費用も全部出してもらったという[4]。レコードデビューを果たした後、25歳の時に夫婦で上京し、世田谷区のマンションで暮らした[注釈 8]
  • 上京から2年半で妻と大阪に戻って数回引っ越した後、40代の頃に中古の一軒家を購入。しかしテレビの仕事が忙しくなって大阪市内にセカンドハウスを借りることになり、平日をセカンドハウス、週末だけ自宅に戻るという“週末婚”のような生活となった。さらにその後自宅に帰るのが面倒になったことから、週末も含めてほぼセカンドハウスで暮らしながら何度か引越しを経験[4]
  • 以降妻とは別居生活となったが、妻も娘たちの独立後に40代の頃から住む自宅を引っ越した。ただし妻と不仲になったわけではなく、2022年の時点において夫婦でほぼ毎日電話で会話しながら別居生活をそれぞれ満喫しており[注釈 9]、時々週末に高知県内の海近くに建てた別荘で妻と過ごしていたという[4]。しかし、2023年9月25日放送の「よ〜いドン!」ロケ中に出会った円の妻のテニス仲間という女性に、円から妻が亡くなったことを知らせる場面があった。

注釈

  1. ^ 本名の篠原義彦名義。
  2. ^ 本人によると、ある日母に連れられて高知県内で八百屋を営む親戚の家に訪れた。当時高級品であるバナナを出されて夢中で食べた所、いつの間にか母の姿が消えていた。そのまま親戚宅で母の帰りを待ちながら暮らし、1年3ヶ月後に着物姿の母が現れ、再会時に円をぎゅっと抱きしめた。本人は「当時の僕の実家の生活状況は本当に貧しかった。両親は僕を満足に食べさせるために一時的に親戚に預けたのか、正式に養子に出すつもりだったのかは分かりません」としている[4]
  3. ^ 本人は「病気になった理由ははっきりとは分からない」としながらも、「大好きな音楽の仕事に携わる時間が極端に減ったことのストレスかも」、「知らぬ間に仕事での人間関係に対する疲れが溜まっていたのかもしれない」としている[4]
  4. ^ この頃は不安を打ち消すため、いつも妻の服の裾を握りしめながら過ごした。本人は「自分の都合で別居生活を始めたのに、しんどい時だけ帰ってくるなんて自分でも勝手なヤツだと思ってました。でもこの時は、妻が一緒にいてくれないと生きていけなかった」と回想している[4]
  5. ^ そんな状況でも妻と娘たちは責めることはなく、本人は「精神面で本当にありがたかった」という[4]
  6. ^ 本人は後年、「休業中は本当に辛かったが、パニック障害があったからこそ生活を見つめ直し、家族のありがたみを再認識することができた」と語っている。また復帰以来、毎晩10時半頃には寝るようにしているという[4]
  7. ^ パニック障害の詳しいエピソードとして、上記以外に次のものがあるとされる。仕事が多忙になる中、原因不明の不安感や目眩を度々起こすが「疲労」と自己判断。症状が悪化するに連れても、生来の病院嫌いが災いして症状が悪化。高速道路での走行中に走行速度に恐怖し暴れる、会話が出来ない、何事にも悲観的になり涙が止まらない等の不調を起こすが、スタッフに抱えられてテレビや舞台に立ち、見た目はそつなく仕事をこなし、不調の憂さを深酒で紛らわしていた。後にテレビ局を出て事務所へ戻る途中に歩行不能となり、駐輪してある自転車の列に突っ込みパニックに陥ってそのまま入院。パニック障害と診断され、数年間抑鬱といった精神疾患による闘病生活を余儀なくされ、暫くふさぎこんでしまう。治療により快方に向かい通常の生活に戻った。
  8. ^ 「夢想花」の印税で初めて数百万円を得た時は、あまりの興奮に一旦全額下ろして自宅にお札を並べて妻と一緒にしばらく眺めたという[4]
  9. ^ 本人は、「傍から見ると奇妙な生活かもしれませんが、ある程度歳を重ねた夫婦は敢えて距離を置いた方が上手く行くと思います。当初妻は戸惑っていましたが、いつしか『一人の生活が快適で仕方ない』と言われました(笑)」と語っている[4]
  10. ^ 「オンチ」は“ひろしとこづえそしてみどり”名義
  11. ^ フライデー事件後のビートたけしの謹慎期間中、木曜深夜に放送した単発の特別番組。やしきたかじんとともに番組のパーソナリティを務め、ラジオ大阪のスタジオで収録した物を放送した。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 円 広志 プロフィール オフィスとんで
  2. ^ a b c d 円 広志とは”. コトバンク. VOYAGE GROUP. 2021年11月6日閲覧。
  3. ^ a b c d 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、143頁。NDLJP:12276264/72 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 週刊文春 2022年12月8日号 p.58 - 61「新・家の履歴書」
  5. ^ a b 【関西レジェンド伝】円広志(1)ツイストのコンサート警備で「夢想花」のきっかけつかむ (2/4ページ) SANSPO.COM、2017年8月15日
  6. ^ 【関西レジェンド伝】円広志(1)ツイストのコンサート警備で「夢想花」のきっかけつかむ (3/4ページ) SANSPO.COM、2017年8月15日
  7. ^ a b c d e 昭和40年男(クレタパブリッシング)2015年12月号 p.54 - 57「円広志インタビュー」
  8. ^ a b c 【関西レジェンド伝】円広志(1)ツイストのコンサート警備で「夢想花」のきっかけつかむ (4/4ページ) SANSPO.COM、2017年8月15日
  9. ^ a b c d 【関西レジェンド伝】円広志(2)「夢想花」歌って紙飛行機乱れ飛んだ世界歌謡祭 (1/3ページ) SANSPO.COM、2017年8月22日
  10. ^ 昭和40年男(クレタパブリッシング)2015年12月号 p.54 - 57「円広志インタビュー」
  11. ^ 第16回 ポピュラーソングコンテスト”. ヤマハ音楽振興会. 2022年11月6日閲覧。
  12. ^ 第9回世界歌謡祭 World Popular Song Festival in Tokyo '78”. ヤマハ音楽振興会. 2022年11月6日閲覧。
  13. ^ TVでた蔵「2015年4月30日放送 フジテレビ アウト×デラックス」”. ワイヤーアクション (2015年4月30日). 2015年11月15日閲覧。
  14. ^ a b 【関西レジェンド伝】円広志(2)「夢想花」歌って紙飛行機乱れ飛んだ世界歌謡祭 (3/3ページ) SANSPO.COM、2017年8月22日
  15. ^ 【関西レジェンド伝】円広志(3)「越冬つばめ」大ヒットで“冬の時代”乗り切った (2/3ページ) SANSPO.COM、2017年8月29日
  16. ^ 第25回日本レコード大賞”. 日本作曲家協会. 2022年11月6日閲覧。
  17. ^ 【関西レジェンド伝】円広志(3)「越冬つばめ」大ヒットで“冬の時代”乗り切った (3/3ページ) SANSPO.COM、2017年8月29日
  18. ^ 週刊テレビ番組(東京ポスト)1984年12月14日号「芸名由来記」56頁
  19. ^ 【関西レジェンド伝】円広志(3)「越冬つばめ」大ヒットで“冬の時代”乗り切った (1/3ページ) SANSPO.COM、2017年8月29日
  20. ^ 見上げればいつも青空”. テレビドラマデータベース. 2022年11月6日閲覧。
  21. ^ 雪の降る人|円広志”. ORICON STYLE. 株式会社oricon ME. 2022年11月6日閲覧。
  22. ^ 風のアルペジオ|円広志”. ORICON STYLE. 株式会社oricon ME. 2022年11月6日閲覧。
  23. ^ 夢のままで|円広志”. ORICON STYLE. 株式会社oricon ME. 2022年11月6日閲覧。
  24. ^ 「今月の新作CM50連発! / 編集部」『広告批評』第227号、マドラ出版、1999年5月1日、20頁、NDLJP:1852946/12 
  25. ^ 円広志 - オリコンCM出演情報


「円広志」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「円広志」の関連用語

円広志のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



円広志のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの円広志 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS