二条天皇 后妃・皇子女

二条天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 04:56 UTC 版)

后妃・皇子女

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区平野八丁柳町にある香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

永万元年(1165年)7月28日に二条院里第で崩御し、8月7日に香隆寺の北の野で火葬し、遺骨を一時香隆寺本堂に蔵めた。のち二条院を移して三昧堂を建て、嘉禎2年(1236年)5月17日、遺骨をこの堂に蔵めた。中世に山陵の所在を失い、元禄年間に行なわれた諸陵探索の際にも定説を得なかった。江戸時代初期の史家・黒川道祐はその著書『雍州府志』の中で「二条院陵在洛北船岡山北麓、陵上有五輪石塔」と記しており、国学者の松下見林が元禄9年(1696年)に著した『前王廟陵記』もこれに従って「歴帝陵考」で「愛宕郡舟岡山乾蓮台寺境内畑中に古家あり、後朱雀、堀河、二条三帝難決」としている。陵上の石塔の九輪の塔と手水鉢は千利休が作ったものと伝わるが、このことからも当時の山陵が荒廃していた様子を察することができる。幕末の修陵の際にも決定せず、陵地発見不能として『中右記』記載により考定した香隆寺旧址中点付近の良地を卜し修陵の外なしとして、明治22年(1889年)6月3日の裁可(治定)をもって廟陵が造営された。

なお今日皇居では、宮中三殿のひとつの皇霊殿で他の歴代天皇や皇族とともに二条天皇の霊が祀られている。

関連作品

テレビドラマ

注釈

  1. ^ この奏請の直前、近衛天皇の中宮で忠通の養女である藤原呈子が懐妊の兆候を見せていたが、結局は出産しなかった(『台記』9月14日条)。橋本義彦は、呈子の出産が絶望的になったことから、美福門院と忠通が孫王擁立に向けて動き出したとしている(「保元の乱前史小考」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、1976年)。河内祥輔は、忠通がこの段階では呈子の再度の懐妊を期待し、呈子所生の子が即位するまでの中継ぎとして孫王擁立を図ったとしている(『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年)。
  2. ^ 『山槐記』永暦元年12月4日条に「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」とある。『玉葉』寿永2年8月14日条や『愚管抄』はこの発言をしたのは忠通としている。『古事談』1-96にも忠通が雅仁擁立を進言したとあるが、その理由を正妃(待賢門院)所生の皇子であるためとしている。一方、『山槐記』と『今鏡』では忠通が雅仁擁立に動いたとは記されていない。河内祥輔は忠通が孫王ではなく雅仁を推した理由を、近衛天皇崩御により状況が変化したためとする(『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年)。橋本義彦は、2年前に孫王擁立を奏請した忠通が前言を翻して雅仁擁立を進言するのは不自然であり、雅仁擁立を目指して鳥羽法皇を説得したのは、雅仁の乳母(藤原朝子)の夫で院近臣の中で主導的立場にあった信西ではないかと推測している(「保元の乱前史小考」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、1976年)。山田邦和は、信西が院近臣の中で台頭したのは雅仁擁立の結果によるものであり、議定当時にはまだその政治的権力は存在しなかったとして、忠通が雅仁擁立の主導的立場にあったとする(「保元の乱の関白忠通」朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』所収 思文閣出版、2009年)。佐伯智広は雅仁擁立を鳥羽法皇の皇位継承構想の一端とみなし、その理由として即位した守仁が成人する前に法皇が崩御した場合に可能性が生じる崇徳上皇の院政を阻止することと守仁が待賢門院とその皇子女が持つ所領に対する相続権を持ち続けるために雅仁との父子関係の維持とそれに基づく皇位継承を要したこととする。また、その結果、消滅する美福門院との養子縁組の代替として姝子内親王との婚姻や八条院の准母待遇が設定されたとする(「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年)。
  3. ^ 兵範記』保元3年8月4日条
  4. ^ もっとも、鳥羽法皇の遺命により二条天皇親政の方策を任されたのは信西その人であり、平治の乱で信西が殺されたのは二条天皇親政を阻止するための後白河上皇の命令であったとする説もある(河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年)。
  5. ^ 平治物語』によると、二条天皇は信頼らによって黒戸御所に幽閉されたとあるが、『愚管抄』によると「とりまいらせ」という表現があるだけで、これが身柄拘束を意味するわけでない。実際には通常通り政務が行われており、二条天皇が特に身柄を拘束されていたわけではない(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』NHKブックス、河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館)。
  6. ^ 平治物語』によると女房車の中を覗いた武士が、天皇を女房と見誤ったとする。女性のような美貌を持った美男子だったという。一方、『愚管抄』では女装の記述は一切なく、単に女車に乗って行幸されたとのみある。その際、女房や側近の働きにより鏡以外の神器、天皇の身の回りの品も女車に乗せ、天皇が地上をじかに歩くことが無いように短い敷物を交互に敷いて車まで案内したという記載もある。また、『愚管抄』によると、「サリゲナシニテヤリ出シテケリ」とあり、だれからも怪しまれず、尋問も受けずに内裏を後にしたことになる(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』NHKブックス)。
  7. ^ 『兵範記』保元元年(1156年)3月5日条には姝子内親王について「前斎院依御猶子」という記述があり、彼女が統子内親王(上西門院、後白河の同母姉)の猶子だったことが確認できる。そのため、姝子内親王は後白河院政派に属している、という指摘もある(佐伯智広「二条親政の成立」『日本史研究』505、2004年。後、佐伯『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年)。
  8. ^ 内裏女房。『今鏡』むらかみの源氏 藻塩の煙 において「二条のみかどの御時、ちかくさぶらひ給ひて督の君とかきこえ給ひしはことの外にときめき給ふときこえ給ひしかば、尚侍になり給へりしにやありけん。ただまた督の殿など申すにや。よくもえうけ給はりさだめざりき」とある。尚侍への任官や叙位は確認できない。
  9. ^ 出自については、六条天皇の項目参照。

出典

  1. ^ 「件の孫王。一院の収養せしめ給ふ所なり」(『本朝世紀』久安5年6月24日条)、「女院襁褓(むつき)の中より養育し奉らる」(『山槐記』永暦元年12月4日条)
  2. ^ 『本朝世紀』仁平元年10月14日条
  3. ^ a b 今鏡』第3 122段
  4. ^ 台記』仁平3年9月23日条
  5. ^ a b c 愚管抄
  6. ^ 『平家物語』
  7. ^ 『山槐記』
  8. ^ 『源平盛衰記』
  9. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」初出:『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5


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