中国の陶磁器
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新石器時代の土器
土器の種類
新石器時代に焼造された土器には、大別して紅陶・灰陶・黒陶・白陶・彩文土器(彩陶)がある。前述のとおり、中国の研究者は「土器」という分類概念を用いず、新石器時代のやきものもすべて「陶」と呼ばれる。器表が赤褐色を呈するものが紅陶、器表が灰色・黒・白を呈するものがそれぞれ灰陶・黒陶・白陶であり、表面に筆で文様や図柄を描いたものが彩陶(日本でいう彩文土器)である。白陶はカオリン(ケイ酸アルミニウム)質の胎土を精製し、高火度で焼き締めたもの。灰陶・黒陶は高火度の還元炎焼成で器面に炭素が吸着したものである。白陶・灰陶・黒陶は、いずれも胎土の精製と、窯を用いた高火度・長時間焼成という条件がなければ作れない、高度な技術段階に達した土器である。なお、出土品の中には、以上のいずれにも分類しがたい粗製の土器もあり、それらは粗陶と称される[11]。
新石器時代土器の概要
中国における新石器時代の土器の存在が確認されたのは、20世紀になってからである。1921年、スウェーデンの地質学者J.G.アンダーソンは、河南省澠池県仰韶村(べんちけん ぎょうしょうそん)で彩文土器を発見した[1]。このことから、新石器時代の彩文土器をかつては「仰韶土器」「アンダーソン土器」と呼んだ。中国の新石器時代は、彩文土器を代表的遺物とする「仰韶文化」と、これに続き、黒陶を代表的遺物とする「龍山文化」に分けられると考えられていた。しかし、その後、特に中華人民共和国成立後の中国各地における発掘調査の進展や研究の進歩により、「仰韶土器」という呼称は実情に合わないものとなっている[12]。彩文土器は中国西部の甘粛省方面からも出土していることから、アンダーソンら欧米の研究者は、中国の彩文土器は西アジアに起源があり、西アジアから甘粛方面を経て黄河中・上流域へ伝播したものと考えた。これに対し、中国の研究者は、中国の土器文化は中国で固有に発生したものであると主張した。放射性炭素による遺物の年代測定の結果などから、中国の土器は中国で独自に発生・進化したものであるとする見解が、今日では一般に認められている。彩文土器も、黄河中・上流域や甘粛地方のみならず、黄河下流域や江南でも出土しており、中国各地で地域特有の土器文化が発生したとみられている[13]。
最初期の土器
中国の先史時代の土器については未解明の部分が多く、今後の発掘調査の結果によって歴史が大きく書き換えられる可能性もある。2012年6月29日付の米国科学誌『サイエンス』に北京大学らの研究チームが発表したところによれば、江西省上饒市万年県仙人洞遺跡から出土した土器片の一部は、放射性炭素年代測定により、約2万年前のものと判明したという[14]。仙人洞のほか、初期の土器を出土した遺跡として、華南では広西壮族自治区桂林市甑皮岩遺跡、華北では河北省保定市徐水区南荘頭遺跡などが知られる。これらの遺跡出土の土器は、放射線炭素年代測定や熱ルミネセンス法により、いずれも約1万年前の製作とされている。仙人洞遺跡出土の土器片は、復元すると丸底の壺形土器で、器表には縄文が施され、胎土には石英粒などを含んだ粗製の土器である[15]。この時期の土器をどのようにして焼いたかは正確には不明であるが、雲南省やタイ王国などに残る民俗事例から類推して、「覆い焼き」という方法が行われたと推定されている。「覆い焼き」とは、成形・乾燥させた土器の周囲を稲わらで覆い、その上を粘土で密封してから点火するものである[16]。
完器に復元された土器が出土した初期の遺跡として、華北では河北省武安市の磁山遺跡と河南省新鄭市の裴李崗(はいりこう)遺跡(ともに紀元前7000年 - 前5000年頃)、華南では浙江省余姚市の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5000年頃)などが知られる。これらの遺跡出土の土器はロクロを用いず、粘土紐巻き上げ等の手捏ねによる製品で、焼成温度はおおむね700〜900度程度とされる。磁山や裴李崗の土器は赤褐色の紅陶で、器表は入念に研磨されている。これらの遺跡の文化では彩陶は作られていない。河姆渡の土器は黒褐色で、器表に動物文、植物文などの線刻を施すものや、漆を塗ったものもあるが、彩陶はやはり作られていない。裴李崗遺跡では中国最古級の窯跡が検出されている。これは平面形が鍵穴形(柄鏡形ともいう)を呈する横穴式窯で、窯内の下部に燃焼室、上部に焼成室を設け、両者を区切る簀子状の隔壁上に製品を並べて焼いていた。こうした窯構造は、かなり進んだ段階のものであり、これより時代をさかのぼる初期的な窯の存在が想定されるが、確認には至っていない[17][18]。
各地の新石器文化
新石器時代中期以降、黄河中・上流域では老官台文化(陝西省)、仰韶文化(陝西省・河南省)、甘粛地方では馬家窯文化(または甘粛仰韶文化、甘粛省・青海省)、黄河下流域では大汶口文化(山東省・江蘇省)、龍山文化(山東省)、江南地域では河姆渡文化(浙江省)、馬家浜文化(上海市)、良渚文化(浙江省)、四川方面では大渓文化(四川省・湖北省)、長江中流域では屈家嶺文化(湖北省・河南省)などがそれぞれ栄え、彩文土器・黒陶などの特色ある土器を生み出した[19]。
老官台文化(4500年BC頃)に属する遺跡では灰陶が出土している。灰陶が作られたということは、高火度の還元炎焼成が行われていたということであり、窯の存在が想定される[20]。仰韶文化は半坡遺跡(西安郊外)を標識遺跡とする半坡類型(4000年BC頃)と廟底溝遺跡(河南省)を標識遺跡とする廟底溝類型(3300年BC頃)に分かれる。半坡遺跡は、環濠を伴う集落遺跡で、共同墓地や窯も検出されている。半坡遺跡では彩文土器が出土したが、出土した土器の大半は粗陶で、彩文土器は全体の5%ほどであった[20]。甘粛地方の馬家窯文化は、馬家窯類型(3000年BC頃)、半山類型(2600年BC頃)、馬廠類型(2200年BC頃)に分けられ、彩文土器の出土を特色とする。甘粛地方の土器文化はその後も斉家文化、辛甸文化に引き継がれる[20]。黄河下流域の大汶口文化(4000 - 2300年BC頃)は山東省泰安市の大汶口遺跡を標識遺跡とし、初期には紅陶が中心だが、彩文土器、灰陶、黒陶もある。中期以降は灰陶、黒陶が中心となり、白陶も現れた[21][20]。続く龍山文化(2400 - 2000年BC頃)は、山東省済南市章丘区の龍山遺跡を標識遺跡とし、ロクロ成形により薄手に仕上げられた黒陶が特色である[22][23]。馬家浜文化(3600 - 2700年BC頃)は上海市青浦区の崧沢(すうたく)遺跡を標識とすることから崧沢文化ともいい、紅陶、灰陶のほか、ロクロ成形による黒陶もある[23]。良渚文化(2750 - 1890年BC頃)は浙江省杭州市余杭区の良渚遺跡を標識遺跡とし、黒陶で知られる[21][23]。大渓文化(4000 - 3000年BC頃)は紅陶を主として黒陶、白陶もある[24][23]。屈家嶺文化(3000 - 2500年BC頃)は器壁が卵の殻のように薄い卵殻黒陶や彩文土器で知られる[24][23][25]。
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黒陶高脚杯 龍山文化
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彩画鳥魚石斧文甕 仰韶文化
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彩文土器 仰韶文化半山類型
注釈
出典
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