ヴェーザー演習作戦 ノルウェー軍の配備状況

ヴェーザー演習作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 13:55 UTC 版)

ノルウェー軍の配備状況

ノルウェーは、第一次世界大戦後の歴代政権が軍備を怠っていたため質量ともに危険な状態にあった。陸軍は6個師団を有しており、平時では19000人の定数であった。総動員時はその5倍の兵力、それぞれ、1 - ハルデン、2 - オスロ、3 - クリスチアンサン、4 - ベルゲン、5 - トロンハイム、6 - ハーシュタに司令部を置いていた。1939年11月のフィンランド=ソ連間の冬戦争の勃発に伴い、北部の第6師団と2個独立歩兵大隊のみ準動員状態であり、7100人の兵力を持っていたが、その多くはフィンランド、ソ連国境の近くに配置されていた。残りの5個師団は8220人の兵力であった。戦車と対戦車兵器は保有していなかった。またノルウェーには空軍が無く、陸軍航空隊と海軍航空隊が存在していた。陸軍航空隊は41機の作戦機を保有していた。空軍力増強の為にアメリカ合衆国へ戦闘機が発注されていたが、これらの配備はドイツ軍の侵攻時には間に合わなかった。4月9日には、オスロ、ベルゲン、クリスチャンサン、トロンハイムの沿岸砲台は戦時定数の1/3の人員が配置されていた。[1]

開戦まで

ドイツ船アルトマルクから運び出されるドイツ人の遺体

2月16日、イギリス駆逐艦コサックがノルウェー領海内でドイツの補給艦アルトマルクへの臨検を行い、アルトマルクから捕虜となっていた商船乗組員を救出した(アルトマルク号事件)。それは明白なノルウェーの中立を侵害する行為であった。この事件以降、イギリスによるノルウェーの中立侵犯は続発するようになった。この事件で、ヒトラーはイギリスにノルウェーの中立を尊重する気はなく、ノルウェーの中立維持も当てにならないということを確信し、侵攻が必要であると考えた。

3月12日、イギリスはノルウェーへの遠征軍派遣を決定し、遠征部隊は3月13日に乗船を開始した。しかし、冬戦争終結によりフィンランドへの支援の必要性がなくなり作戦中止となった。

3月28日、英仏合同戦争会議はノルウェー領海内への機雷敷設(ウィルフレッド作戦)を実施し、それに続いてトロンハイム、ナルヴィクへ兵員を上陸させること(R4計画)を決めた。

4月3日、ノルウェー侵攻に参加する最初のドイツ軍侵攻部隊の艦船がドイツを出港した。

4月3日、ドイツ国防軍情報局(Abwehr)のハンス・オスター大佐は、デンマークとノルウェー侵攻が翌週であることをヴァチカンの情報仲介者とオランダのベルリン駐在武官にリークし、デンマーク、ノルウェー、イギリスに伝えるよう依頼した。しかし、この情報は、正しい人物に伝わらなかったり、情報評価が誤ったりで、これら三国政府の動きに影響を与えることはなかった[2]

4月5日、イギリス海軍のウィルフレッド作戦が実行に移され、巡洋戦艦レナウンを含む艦隊がスコットランドから出港した。

4月6日から4月8日の間に、多数の随伴艦を伴った強力なドイツの水上部隊がスカゲラク水道とカテガット水道を通過するのをスウェーデンとデンマークに観測された。また、バルト海沿岸のドイツ諸港での慌ただしい動きや、デンマーク・ドイツ国境での不穏な動きも観測された。ベルリン駐在スウエーデン大使はドイツ外務省に照会をおこなった。[2]

4月8日未明にイギリス海軍によるベストフィヨルド南方への機雷敷設は完了したが、海中に転落した乗員の捜索を行っていた駆逐艦グローウォームがドイツ海軍に捕捉され、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーおよび駆逐艦2隻との戦闘で失われた。

4月8日、1115時にノルウェー南岸沖の国際海域でポーランド潜水艦オジェウによりドイツの輸送船リオ・デ・ジャネイロが撃沈され、約100名ほどがノルウェー艦艇や漁船に救助されたが、生存者は制服着用のドイツの陸兵だった。ノルウェーでの訊問で生存者は、ノルウェーの要請にもとづいてベルゲンへ行く予定だったと証言した。[2]

4月8日、イギリスとフランスのノルウェー駐在海軍武官は、ノルウェー海軍に(中立を無視して)ノルウェー領海内に機雷敷設を行った事を通知した。

デンマーク侵攻

ドイツ軍のI号戦車。デンマークのオベンローにて、1940年4月9日。

戦略上、ドイツにとってのデンマークの重要性は、ノルウェーでの作戦の足場としてであった。そしてもちろん何らかの方法で支配下におく必要がある隣国としてでもあった。バルト海との関係でデンマークの位置を見れば、ドイツやソ連への航路の支配という点でも重要であった。

狭く比較的平坦なデンマークの国土は、ドイツ陸軍の作戦において理想的なものであった。そして、デンマークの小規模な陸軍には希望はほとんどなかった。だが、朝早く少数のデンマーク軍がドイツ軍と交戦し、16名の死者と20名の負傷者を出した。ドイツ側の死傷者数は不明であるが、12両の装甲車などが破壊され、戦車4両が損傷した。また、ドイツの爆撃機1機も損傷した。[3]短時間の戦闘の間、二人のドイツ兵が一時的にデンマーク側に捕えられた[4]

1940年4月9日の最初のドイツ軍のデンマーク侵攻の直前、ドイツの駐デンマーク大使セシル・フォン・レンテ=フィンク(de:Cécil von Renthe-Fink (Diplomat))はデンマークの外務大臣en:Peter Rochegune Munchに電話をし、会談を求めた。20分の会談後、レンテ=フィンクは、フランスとイギリスの攻撃からこの国を守るため現在ドイツ軍はデンマークに向かっていると述べた。そしてレンテ=フィンクは、デンマークは抵抗をすぐに止め、デンマーク当局とドイツ軍との間で連絡を取るよう要求し、もし要求が入れられない時はドイツ空軍が首都コペンハーゲンを空襲するであろうと述べた。[4]

ドイツ軍の装甲車Sd. Kfz. 223Sd. Kfz. 222ユトランド半島にて。

ドイツの要求が伝達された時、第1陣のドイツ軍は既に進軍を開始しており、4時15分にGedserにフェリーで上陸した部隊が北へ向かっていた。降下猟兵は抵抗を受けることなくオールボーの二つの飛行場やStorstrøm橋、Masnedøの要塞を占領した。[4]

現地時間4時20分にドイツ軍の歩兵1000名が機雷敷設艦Hansestadt Danzigからコペンハーゲン港に上陸し、抵抗に会わずにthe Citadelのデンマーク軍駐屯地を素早く占領した。またデンマーク王族拘束のためドイツ軍は港からアマリエンボー宮殿へ向かった。ドイツ軍が到着した時、デンマークの近衛隊は既に警戒態勢にあり、別の増援部隊も向かっている最中であった。アマリエンボー宮殿に対するドイツ軍の最初の攻撃は撃退され、国王クリスチャン10世と大臣達は陸軍司令長官William Wain Priorと協議する時間を得られた。議論中、He111Do 17の編隊が幾つか街の上空を飛行しビラを投下した。コペンハーゲン市民に対する爆撃の虞に直面し、戦闘継続に賛成なのはPrior将軍だけであり、8時34分に国内のことについての政治的独立の保持を条件にクリスチャン10世とデンマーク政府はすべて降伏した。[4]

5時45分、ドイツ軍のBf 110シェラン島Værløseの飛行場を攻撃した。デンマーク軍の対空砲火にもかかわらず、ドイツ軍は11機の航空機を破壊し、14機を大破させた。[4]

デンマークの戦いは6時間未満で終わった。デンマークが素早く降伏したことで、しばらくの間は独特の寛大な占領政策がとられる事になった。






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