ルーマニアのユダヤ人の歴史 ルーマニアのユダヤ人の歴史の概要

ルーマニアのユダヤ人の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/17 05:00 UTC 版)

ブカレスト・シナゴーグ

18世紀までユダヤ人社会は小さなものであったが、1850年頃から増加し始め、特に第一次世界大戦後の大ルーマニア領土の確立後にさらに増えた。圧倒的多数の共同体は都会的な形態をとっていたにもかかわらず、田園地帯にも居住者のいる多様なコミュニティーで、ユダヤ人はルーマニア社会の中で宗教的迫害人種差別の標的にされた。19世紀後半からユダヤ人問題(Jewish question)と市民権に対するユダヤ住民の権利との議論が戦わされ、ルーマニアでホロコーストの一部をなすジェノサイドが引き起こされたのだった。後にアリヤーイスラエルへの帰還運動)が盛んとなって、現在のルーマニアにあるユダヤ人社会の人口は劇的に減少した。

初期

後にルーマニアとなる地でユダヤ人社会が形成されたのは、ローマ帝国が属州ダキアを支配していた2世紀頃である。碑文と硬貨がサルミゼゲトゥサとオルショヴァ(Orşova)で発見されている。

カライ派信奉者の民族集団であるクリミア・カライム人は、クマン人から発生したともいわれ、発祥については現在も議論が続いているが、現在のルーマニアの一部を含む黒海沿岸に固定されたユダヤ人の存在があったことが推測される。この地域には、ドナウ川河口からドニエストル川にかけて通商港クマニア (Cumania) があった。彼らは16世紀中かまたはもっと早くから、モルダヴィア人の定期市数カ所に姿を現していた[1]。最古のユダヤ人(ほぼセファルディム)の存在は、1330年に記録されたモルダヴィアのチェタテア・アルバ(Cetatea Albă、現在のウクライナ、ビルホロド=ドニストロフスキーでの文献に残る。ワラキアでは、ブカレストで生活するユダヤ人について1550年代に初めて言及された[2]。14世紀半ば、将来ルーマニア領となる地は、ハンガリーラヨシュ1世によってハンガリーとポーランド王国から追放されたユダヤ人の重要な避難場所となっていた。トランシルヴァニアでは、ユダヤ系ハンガリー人らが1492年頃、トランシルヴァニア・ザクセン人の要塞にいたと記録された[3]

モルダヴィア公ロマン1世(在位:1391年-1394年?)は、ユダヤ人一人につき3ターラーの税を支払うのと交換に、モルダヴィアでの軍役を免除した。モルダヴィアでは、シュテファン大公(1457年-1504年)も報酬を持ってユダヤ人を処遇した。ヤシのイサアク・ベン・ベニヤミン・ショル(Isaac ben Benjamin Shor、白羊朝スルタン、ウズン・ハッサンに元々雇われていた。通称イサク・ベグ)は、ストルニク(元々はボイエリ (Boyar) の要職。宮廷での執事)に任命され、すぐ後にロゴファト(logofăt、国務長官)に昇進した。彼はボグダン3世盲目公と、その息子で後継者シュテファンの二代に渡って仕えた。

この時代、ドナウ公国(ワラキア及びモルダヴィア両公国の総称)はオスマン帝国の宗主権下にあり、セファルディムの幾人かが住んでいたイスタンブールからワラキアへ移住した。ポーランドと神聖ローマ帝国から来たユダヤ人らがモルダヴィアに定住した。彼らがオスマン帝国政府の高官を務め、外国人債権者と貿易業者の共同体の多数を占めたことから[1]、ユダヤ人は2公国のホスポダル(hospodar、実力者)たちによく思われず、苦しめられた。モルダヴィア公シュテファニツァ(Ştefăniţă、1522年)は、前任の2人の公らによって与えられたユダヤ人商人のほぼ全ての特権を引き出した。ウシの貿易をするユダヤ人が脱税に従事していたと断罪した後、ペトル・ラレシュ公(Petru Rareş)は1541年にユダヤ人の富を没収した[1]。アレクサンドル・ラプシュネアヌ公(Alexandru Lăpuşneanu)はその最初の時代(1552年-1561年)、その他の範疇の階層と並んでユダヤ人迫害を行った。それはギリシャ人ルーテル教会信徒で、傭兵出身のイオアン・ヤコブ・ハラクリデス(Ioan Iacob Heraclid)がラプシュネアヌを追放するまで続いた。ハラクリデスは、対ユダヤ人の課題には寛大であった。1564年にラプシュネアヌが公位に返り咲くと、彼は迫害を再開した。数多くの公たちに融資を行っているトルコと在ワラキア及びモルダヴィアのユダヤ人たちは、宗主国トルコへの朝貢要求が増えると増加し、1550年以降役職をあてがわれた(1570年代では、ユダヤ系の強力なナクソス公 (Duchy of the Archipelago) ヨセフ・ナシが知られる。彼はヘラクリデスとラプシュネアヌが公位に就いた際の黒幕であった)。この時期を通して、いくつもの血にまみれたユダヤ人に対する暴力事件が、債務を返済できなくなった公らによって扇動された[4]

ペトル・シュキオプル公(Petru Şchiopul)の最初の短い治世の間(1574年-1579年)、主としてポーランド出身の貿易業者である在モルダヴィアのユダヤ人たちは、地元モルダヴィア人らと競争していた。彼らは重税を課されて最後には追放された[5]。1582年、シュキオプル公はユダヤ人医師ベンヴェニステの助けを得てモルダヴィア支配権を取り戻した。ベンヴェニステは、自分と同じ信仰を持つ者たちのために公に影響を及ぼすよう尽力した。

ワラキアでは、ワラキア公アレクサンドル2世ミルチャ(Alexandru II Mircea、在位:1567年-1577年)が私設秘書兼助言者として、ユダヤ人イサイア・ベン・ヨセフを雇った。彼は同胞に替わり自分の影響力を行使した。1573年、宮廷で陰謀を企んだとしてイサイアは解雇されたが、彼はさらに被害を受けることはなかった。ただちに彼はワラキアを離れてモスクワ大公イヴァン4世に仕えた。前述のベンヴェニステの友であるソロモン・アシュケナジの努力を通じ、アロン圧制公(Aron Tiranul)はモルダヴィア公位についた。それにもかかわらず、新たな支配者はヤシ在住の19人のユダヤ人債権者を、裁判なしに斬首刑に処した[5]。同じ時期にワラキアでは、ミハイ勇敢公(Mihai Viteazul)の治下でユダヤ人債権者に対する暴力的抑圧が頂点を迎えていた。ミハイ公は、1594年にブカレストでトルコ人債権者らを殺害した後、自身がルメリア遠征を行うと、ドナウ南岸へ移住したユダヤ人に対して、暴力を振るった(一方で、トランシルヴァニア在住のユダヤ人とは良好な関係を維持していた)[6]

近代

1623年、トランシルヴァニアに住むユダヤ人たちは、トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボル(Bethlen Gábor)によって特権を授けられた。ベトゥレンは、トルコ領からトランシルヴァニア領へ企業家を惹きつけるのを支援した。ユダヤ人はジュラフェヘールヴァール(現在のアルバ・ユリア)にのみ定住が許されることになると、特権の授与はその後10年間剥奪された[7]。授けられた特権の中には、ユダヤ人は伝統的な着衣を身につけて良いという一項目があった。ただちに、ジュラフェヘールヴァールの有力者たちは、ユダヤ人の地位と人種を明らかにする着衣のみ許可することに決めた[8]

正教会へ改宗したユダヤ人の地位は、ワラキアではマテイ・バサラブ(Matei Basarab)公の勅令で定められ、モルダヴィアではヴァシーレ・ルプ(Vasile Lupu)公の勅令で定められた[9]。ルプ公は1648年にウクライナ・コサックが現れるまで、考慮を持ってユダヤ人を処遇した。コサックはポーランド・リトアニア共和国反対して進軍し、ワラキア・モルダヴィア一帯を横断し、多くのユダヤ人を殺害した。暴力はポーランド出身のアシュケナジム・ユダヤ人に対して向けられ、彼らは小さいが確固たる共同体のあるモルダヴィアとワラキアへ逃れていった[10]。虐殺と、正教会信徒のコサックに強制された改宗が1652年に起きた。強制改宗のきっかけとなったのは、ヴァシレ・ルプ公の娘とボフダン・フメリニツキーの息子ティモフィの結婚であった[11]

コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ公(Constantin Brâncoveanu)の私設秘書であったアントン・マリア・デル・キアロによれば、ワラキア在住のユダヤ人たちは服装規定に対する尊敬を勝ち得ていた。しかし彼らは黒か紫といった他民族とは違う色の衣服を着たり、黄色か赤のブーツを履くことを禁止されていた[12]。それにもかかわらず、ルーマニア人学者アンドレイ・オイシュテアヌ(Andrei Oişteanu)はユダヤ人の民族的・信仰上被った社会的不名誉はモルダヴィアとワラキアにおいて、そしてヨーロッパの正教会勢力範囲内で、普通の状態ではなかったと論じている[13]

モルダヴィアにおける最初の血の中傷(ルーマニアとしても同様に最初である)は、1710年4月5日、トゥルグ・ネアムツ(Târgu Neamţ)のユダヤ人が宗教儀式のためキリスト教徒の子供を殺害したと告発された時に始まった[14]。翌日、5人のユダヤ人が殺害され、その他は後遺症が残るほどの大怪我を負わされ、全てのユダヤ人の住宅が略奪にあった。ユダヤ人共同体の代表者たちは逮捕され拷問を受けた。一方で、一部の影響力を持つユダヤ人らはヤシにいるモルダヴィア公ニコラエ・マヴロコルダト(Nicolae Mavrocordat、モルダヴィア初のファナリオット支配者)へ願い出た。マヴロコルダトが調査を命じた結果、逮捕されていた者たちが釈放された。これは、正教会の高位聖職者らがユダヤ人への攻撃に荷担した初めての出来事だった。高位聖職者らの教唆のため、1714年には似たような嫌疑がロマン(Roman)在住のユダヤ人にかけられた。ユダヤ人家庭で下女として働くキリスト教徒の少女が、カトリック教会の集団に殺害された事件で、ユダヤ人はすぐに罵られ始めたのである。どのユダヤ人住宅も破壊され、真の容疑者が実力者らによってあぶり出される前に、2人の尊敬を集めるユダヤ人が絞首刑にされた。

コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ公の元、ワラキアのユダヤ人らはブカレストに、スタロスタ(starosta、長老)が率いる特別のギルドを獲得した[15]。ワラキア、モルダヴィアのユダヤ人たちは、ヤシにいるハカーム・バシ(Hakham Bashiラビの長)に従属していた。しかしすぐにブカレストのスタロスタらはいくつかの信仰義務を負わされた[16]。シュテファン・カンタクジノ(Ştefan Cantacuzino)公治下では重税と迫害にあい[17]、ワラキアのユダヤ人はニコラエ・マヴロコルダト公の時代(1716年-1730年)には価値のある特権を得た(マヴロコルダトは自分の宮廷にダニエル・デ・フォンセカというユダヤ人召使いを雇っていたことが知られる)[18]。別の反ユダヤ人暴動が1760年代にブカレストで起こり、暴動側はエルサレム総主教庁のエフラム2世の訪問によって行動を助長させた[19]

1726年、ベッサラビアの自治都市オニツカニ(Oniţcani)で、4人のユダヤ人たちが、復活祭の時、その血を集める目的で5歳の幼児を誘拐し殺害したと告発された。4人はモルダヴィア公ミハイ・ラコヴィツァ(Mihai Racoviţă)指揮の下でヤシで裁かれ、外交上の抗議を受けてただちに釈放された。この種の事件は同時代のいくつかの年代記や公文書に反響を呼んだ。例えば、在オスマン帝国・フランス大使であるジャン=バティスト・ルイ・ピコンは、 『このような罪状はもはや文明化された諸国では、受け入れられることはない。』と述べていた[20]。モルダヴィアに住むユダヤ人住民の状況において最大の明白な影響は、ヨアン・マヴロコルダト公治下(1744年-1747年)に示された。スチャヴァ近郊のユダヤ人農夫が、マヴロコルダトが強姦目的でユダヤ人女性の数人を誘拐し、悪事のために自宅を使用していると疑われると、トルコの大宰相府へ報告したのである。マヴロコルダトは自分を告発した者を絞首刑に処した。この仕業がマフムド1世の在モルダヴィア全権公使の怒りを呼び起こし、公はその座を失うことで応報を受けた[19]


  1. ^ a b c Rezachevici, September 1995, p.60
  2. ^ Djuvara, p.179; Giurescu, p.271
  3. ^ Rezachevici, September 1995, p.59
  4. ^ Rezachevici, September 1995, p.60-61
  5. ^ a b Rezachevici, September 1995, p.61
  6. ^ Rezachevici, September 1995, p.61-62
  7. ^ Rezachevici, October 1995, p.61-62; 64-65
  8. ^ Oişteanu (1998), p.239
  9. ^ Rezachevici, October 1995, p.62
  10. ^ Rezachevici, October 1995, p.62-63
  11. ^ Rezachevici, October 1995, p.63
  12. ^ Del Chiaro; Oişteanu (1998), p.239-240
  13. ^ Oişteanu (1998), p.242-244
  14. ^ Oişteanu (2003), p.2; Rezachevici, October 1995, p.66
  15. ^ Cernovodeanu, p.25; Giurescu, p.271
  16. ^ a b Cernovodeanu, p.25
  17. ^ Rezachevici, October 1995, p.66
  18. ^ a b c d Cernovodeanu, p.26
  19. ^ a b Cernovodeanu, p.27
  20. ^ Oişteanu (1998), p.211-212
  21. ^ Cernovodeanu, p.27; Oişteanu (2003), p.3
  22. ^ a b c d Cernovodeanu, p.28
  23. ^ Djuvara, p.179; Giurescu, p.272
  24. ^ Hitchins, p.226-227
  25. ^ Cernovodeanu, p.28; Djuvara, p.179-180
  26. ^ Ornea, p.387
  27. ^ Djuvara, p.180-182
  28. ^ Djuvara, p.182
  29. ^ ジョルジュ・カステラン 『ルーマニア史』 萩原直訳、白水社 <文庫クセジュ>、1993年、p34。
  30. ^ a b c Oişteanu (1998), p.241
  31. ^ Islaz Proclamation, art.21
  32. ^ Oişteanu (2003), p.2
  33. ^ Ornea, p.389; Veiga, p.58-59
  34. ^ Panu, p.223-233
  35. ^ Ornea, p.389; Panu, p.224
  36. ^ For example, Panu (p.226) stated that "the issue of [the Jews'] assimilation or the mere possibility of their assimilation were never mentioned [by anti-Semites], being considered an impossible occurrence altogether [...]"; in the 1890s, Caragiale evidenced the paradox in his editorial Trădarea românismului! Triumful străinismului!! Consumatum est!!!, mimicking the tone of Liberals in opposition to the Petre P. Carp government: "Yesterday, February 5, '93, yesterday, fateful and cursed day! was voted that anti-social, anti-economical, anti-patriotic, anti-national, anti-Romanian law, that law through which poverty-stricken Jews may no longer be prevented from training in certain careers!"
  37. ^ Israil Bercovici, O sută de ani de teatru evreiesc în România ("One hundred years of Yiddish/Jewish theater in Romania"), 2nd Romanian-language edition, revised and augmented by Constantin Măciucă. Editura Integral (an imprint of Editurile Universala), Bucharest (1998). ISBN 973-98272-2-5. passim; see the article on the author for further publication information.
  38. ^ Ornea, p.390; Veiga, p.60
  39. ^ a b c Ornea, p.391
  40. ^ Ornea, p.396; Veiga, p.58-59
  41. ^ Ornea, p.396
  42. ^ Veiga, p.24-25
  43. ^ Veiga, p.56
  44. ^ Ornea, p.395
  45. ^ The Jewish-Romanian Marxist Constantin Dobrogeanu-Gherea criticised Poporanist claims in his work on the 1907 revolt, Neoiobăgia ("Neo-Serfdom"), arguing that, as favorite victims of prejudice (and most likely to be retaliated against), Jews were least likely to exploit: "[The Jewish tenant's] position is inferior to that of the exploited, for he is not a boyar, a gentleman, but a Yid, as well as to the administration, whose subordinate bodies he may well be able to satisfy, but whose upper bodies remain hostile towards him. His position is also rendered difficult by the anti-Semitic trend, strong as it gets, and by the hostile public opinion, and by the press, overwhelmingly anti-Semitic, but mostly by the régime itself - which, while awarding him all the advantages of neo-serfdom on one hand, uses, on the other, his position as a Yid to make of him a distraction and a scapegoat for the régime's sins."
  46. ^ Veiga, p.62-64
  47. ^ Veiga, p.61
  48. ^ Veiga, p.61-62
  49. ^ Ornea, p.396-397
  50. ^ Oişteanu (1998), p.252-253; Nichifor Crainic declared in 1931 "We were not, are not and will not be anti-Semites"; nevertheless, only two years later, in 1933, he wrote "The new spirit is healthy because is anti-Semitic, anti-Semitic in doctrine and anti-Semitic in practice". Barbu Theodorescu, the secretary and bibliographer of historian Nicolae Iorga, wrote in 1938: "Romanian anti-Semitism is 100 years old. To fight against the Jew is to walk the straight line of the Romanian nation's normal development. Anti-Semitism animated the heart of the Romanian intellectual elite. Anti-Semitism is the most vital problem of Romanian prosperity." (Oişteanu (1998), p.253)
  51. ^ a b c Oişteanu (1998), p.254
  52. ^ Ornea, p.397; Veiga, p.246, 264
  53. ^ Royal Decree, 1938, art.6
  54. ^ Decree, 1940; Ornea, p.391-393
  55. ^ Veiga, p.301
  56. ^ Oişteanu (1998), p.230-231; Andrei Oişteanu suggested Wilhelm Filderman, the Jewish community's president, influenced Antonescu's decision
  57. ^ Oişteanu (1998), p.231
  58. ^ Ilie Fugaru, Romania clears doubts about Holocaust past, UPI, November 11, 2004
  59. ^ a b International Commission on the Holocaust in Romania (2004年11月11日). “Executive Summary: Historical Findings and Recommendations (PDF)” (English). Final Report of the International Commission on the Holocaust in Romania. Yad Vashem (The Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority). 2006年7月25日閲覧。[リンク切れ]
  60. ^ a b Wexler (2000)
  61. ^ Gordon, p.299; Wexler (1996), p.83
  62. ^ Gordon, p.300
  63. ^ Gordon, p.300; Wexler (2000)
  64. ^ Gordon, p.299





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