マックス・ロレンツ 生涯

マックス・ロレンツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 05:19 UTC 版)

生涯

1901年にデュッセルドルフの精肉店の家庭に生まれる。音楽的な家庭環境ではなかったが、母親のサポートもあり、音楽の道を歩み始める。ケルンでMax Pauliに師事し、1920年代にベルリンでErnst Grenzebachの下で学ぶが、あまり将来を嘱望される歌手とは看做されていなかった。1927年にドレスデンで、『タンホイザー』のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ役でデビューする。1929年からは、ベルリン国立歌劇場に所属し、同歌劇場の看板歌手となる。同年ウィーン国立歌劇場にもデビューし、以降1954年までの長い関係を築く。バイロイト音楽祭には、1933年から1954年まで参加し、ジークフリートをはじめとするワーグナー作品の主役として出演した。1931年から1934年1947年から1950年には、メトロポリタン歌劇場でも、ほぼすべてのワーグナーの主要テノール役を歌う。コヴェント・ガーデンでは、1934年1937年エドワード8世の戴冠記念公演で、ライナー指揮の『さまよえるオランダ人』でエリックを歌っている。イタリアでも、ワーグナー演奏の伝統があるボローニャ市立歌劇場をはじめ、スカラ座ローマ歌劇場フィレンツェ五月音楽祭などに出演している。

1950年代以降は、『サロメ』のヘロデ王など、性格テノールの役での出演が多くなり、1960年にドレスデンでの『トリスタン』でワーグナー役に別れを告げ、1962年にウィーンでのヘロデ王で引退する。以降は、後進の指導に回り、1975年に亡くなった。

ナチス庇護下にあった戦前のバイロイト音楽祭の象徴的歌手であったが、1932年に結婚した妻のCharlotte Appelがユダヤ人であったため、ナチスから活動に対する妨害をたびたび受けた。当時のワーグナー家の当主であったヴィニフレート・ワーグナーは、バイロイト音楽祭にロレンツを起用しないでほしいとヒトラーから要請されたが、「ロレンツ抜きでは音楽祭が成立しない」としてこれを拒否し、ロレンツはその後も1944年までバイロイト音楽祭に出演することとなった。




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