ボブ・ホープ 生い立ちと家族

ボブ・ホープ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 16:25 UTC 版)

生い立ちと家族

ホープはロンドンのエルタム(en, 現グリニッジ区)で、7人兄弟の5番目として生まれた。父親のウィリアム・ヘンリー・ホープはウェストン・スーパーメア出身の石工で、母親のエイヴィス・タウンズはウェールズ出身のライトオペラ歌手であった。一家はウェストン・スーパーメア、ホワイトホール、ブリストルのセント・ジョージで暮らし、その後1907年アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランドに移住する。ホープは1920年にアメリカ合衆国の市民権を得た。

アメリカに移ったホープは、コメディアンになる以前、「パッキー・イースト」の名でプロボクサーであったことがある。

伝記作者アーサー・マルクスによれば、ホープは最初の妻グレース・ルイーズ・トロクセルと1933年1月25日に結婚した。彼女はホープの1928年からのヴォードヴィルのパートナーであったが、二人はすぐに離婚した。

彼は二番目の妻ドローレス・デフィーナと、伝えられるところによれば1934年2月19日に結婚している。彼女はブロンクス出身で、ドローレス・リーデという芸名でナイトクラブで歌っていた。ドローレスの出演していたマンハッタンのナイトクラブ、ザ・ヴォーグで出会った彼らは、二ヶ月後には結婚していた。二人はイリノイ州エヴァンストンの孤児院から四人の子供を引き取り、子どもたちはホープの死まで共に暮らした。

映画

1944年 ハリウッドCBSスタジオにて、ジェーン・ラッセル

ワーナー・ブラザースの短編コメディーに何本かの主演後、ホープの映画での人気に火がついた。

ホープが映画界で名を上げたのは、1938年のミュージカル映画『百万弗大放送英語版』(原題: "The Big Broadcast")で演じた、豪華客船の船内放送アナウンサー役である。劇中でホープが女性歌手シャーリー・ロスとデュエットしたバラード『思い出によみがえる英語版』(原題: "Thanks for the memory" ラルフ・レインジャー英語版作詞、レオ・ロビン英語版作曲)は、美しいメロディとハイブラウな歌詞を兼ね備えた曲で大ヒットし、作者のレインジャーとロビンはその年のアカデミー賞主題歌賞を受賞した(このデュエット1曲のおかげで、助演の筈のホープとロスは主役を喰ってしまった)。ホープはそれ以来『Thanks for the memory』の歌詞に手を加えてソロ・ナンバーとしたものを自分の持ち歌とし、生涯にわたってテーマソングとした(後世まで広く歌い継がれる大スタンダードになったため、コメディアンのテーマにはもったいないほどの佳曲である、とする評が多い)。

最も有名な作品としては、ビング・クロスビードロシー・ラムーアと競演したパラマウント映画のドタバタロードムービー「珍道中シリーズ」 (1941-) や、『私の愛したブルネット My Favorite Brunette』(1947) があげられる。『珍道中』シリーズは、ホープとクロスビーの掛け合い、楽屋落ちギャグを連発したことで人気を博し、また歴史に残るスタンダードナンバーを多く生み出した。

日本で広く知られたホープ主演映画としては、1948年のミュージカルコメディ西部劇『腰抜け二挺拳銃』が挙げられる。グラマー女優ジェーン・ラッセルと共演したこの映画で、ホープがアングロ・コンサーティーナを抱えて歌ったノベルティ・ソング『ボタンとリボン英語版』(原題: "Buttons And Bows" レイ・エヴァンス作詞、ジェイ・リビングストン作曲)は、英語を解さない当時の日本人にも「バッテンボー」の歌として広く親しまれた。またこの作品のヒットによりホープ主演作の多くが日本では『腰抜け』シリーズとして公開された。

ホープは主演男優賞など通常のアカデミー賞を受賞することはなかったが、映画芸術科学アカデミーは敬意を表し、2度のアカデミー賞特別名誉賞、2度の特別賞およびジーン・ハーショルト人道賞(Jean Hersholt Humanitarian Award)で5回の表彰を行っている。

1950年代から1980年代までアカデミー賞のホストを数回に亘り務めたが、1968年の授与式では“Thanks for the memory”の演奏と共に堂々登場して挨拶を始めるや「アカデミー賞へようこそ、まあ、我家では過越の祭り(Passover)といわれているが(Welcome to the Academy Awards. Or as it's known in my house - Passover)」とのぼやき混じりな台詞を残している。アカデミー賞獲得のため野心むき出しに行動する俳優をスティーヴン・ボイドが演じたハリウッド内幕物映画『オスカー』(1966年)では、ホープは授賞式のホスト役を演じた。

ライブツアーと慰問活動

朝鮮戦争にて

ホープの最も得意とする分野はスタンダップ・コメディアン(漫談家)としてのライブステージであり、新聞報道によれば、1940年の8週間のツアーではその当時の記録である10万ドルを受け取っている(大衆車のフォードの新車が1台700ドル近辺で買えた時代である)。ただ、翌年、彼は無償でショーを行っている。

1941年5月6日にカリフォルニア、マーチ・フィールドで、ホープは最初の米国慰問協会のショーを行ない(アメリカはその時点では参戦していない)、その後、アメリカが参戦した第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争から、湾岸戦争まで、約60年間に亘っておよそ60回の慰問ツアーを行っている。この慰問活動は、軍隊に志願入隊しようとしたところ、「エンターテイナーとして兵士を楽しませることがより役に立つ」と諭された[要出典]ことに始まる。おそらくは、史上もっとも熱心に軍人慰問活動に取り組んだ芸能人の一人であろう[独自研究?]








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