ダホメ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 00:38 UTC 版)
歴史
ダホメ王国の起原はアラダの海岸沿いの王国から来たアジャ人の一群が北に移動し、内陸のフォン人の中に入植したところにまで遡ることが出来る。
1650年頃、アジャ人はフォン人を支配し、ウェグバジャが自らをアジャ人の住む領域の王であると宣言した。アグボメ(現アボメイ)を都としたウェグバジャと後継者たちは、動物の犠牲を伴う王の崇拝儀礼に深く根ざした中央集権的な国家を築くことに成功した。これには王の祖先への人身供犠も伴っていた。王国の土地全体を直接王が所有し、王は収穫から徴税した。
しかし経済的には、歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった。
アガジャ王(在位1708年-1732年)の治下、王国は王家の発祥の地であるアラダを征服し、アフリカ西海岸にいるヨーロッパの奴隷商人と直接関わりをもつようになった。とはいえアガジャ王は、奴隷貿易においてダホメ王国の最大のライバルであった隣国のオヨ王国に勝利することが出来なかった。1730年、アガジャ王はオヨ王国に進貢するようになったが、ダホメ王国は独立を維持したままであった。隣国の従属国となったとはいえ、ダホメ王国は膨張を続け繁栄しつづけた。この繁栄は奴隷貿易と、後に導入されたパーム栽培の農園から産するパーム油の輸出によっていた。王国の経済的構造のために、土地は王に属しており、王は事実上すべての貿易を独占した。王は征服したウィダー(Ouidah)を交易港として奴隷貿易(マルーンの項を参照)を行なった。
ダホメ王国が最盛期を迎えたのは、1818年に即位し、残虐さで悪名高かったゲゾ王の時代である。即位したその年に、北からのソコト帝国軍の侵攻と内乱で混乱したオヨ王国からダホメは独立を果たした。ゲゾは常備軍を作り、奴隷狩りを広く行う一方、ふたたびアブラヤシの農園を拡張し、奴隷交易に代わる財政基盤を確立しようとした。しかし、奴隷制廃止を要求するイギリスとの対立や、保守派の影響もあり、ゲゾは奴隷貿易を廃止しなかった。暗殺ともされる1858年の彼の死後もダホメ王国は奴隷貿易を継続したが、イギリス、フランスなどが圧力を強め、アベオクタなど周辺諸国の抵抗も激しくなった。
ダホメ王国は最終的にフランスに1890年から1894年にかけて征服された(第1次フランス=ダホメ戦争、第2次フランス=ダホメ戦争)。ダホメ王国に対して闘った軍隊の成員のほとんどはアフリカ人であった。これらのアフリカ人の兵士たちのダホメ王国に対する敵意、とりわけヨルバ人の敵意が、王国の凋落を導いたと推量される。そして、12代目のアゴリ・アグボ(在位1894年–1900年)がフランス軍により1900年に廃位・追放されたことでダホメ王国は完全に滅亡した。その後、アゴリ・アグボは現地の祭祀の長として帰国を許され、彼の子孫は歴代国王の祭祀を現在も執り行っている。2019年以降はダー・サグバジュー・グレルが事実上の王位請求者であったが、2021年12月17日に死去し、ジョルジュ・コリネ・ベハンジン(Georges Collinet Béhanzin)が後を継いだ。
この地域は、1958年に自治国となり、1960年に再び独立を回復してダホメ共和国が成立した。1975年にベナン人民共和国に改称し、1990年にベナン共和国と改名した。
- ^ 富永智津子 (2016年3月25日). “【女性】アフリカの女性戦士「アマゾン」(19世紀)”. 比較ジェンダー史研究会. 2016年12月22日閲覧。
- ^ 映画のモデルとなった女性兵士軍団 ダホメ王国を守る、日本経済新聞、2023年2月9日
- ^ ポランニー 2004, 第2部1章.
- ^ ポランニー 2004, pp. 113–117.
- ^ ポランニー 2004, p. 122.
- ^ ポランニー 2004, pp. 115–116.
- ^ ポランニー『ダホメと奴隷取引』:18世紀ダホメ経済と社会主義はまったく同じ!、2022年5月26日
- ^ ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』全訳終わった(自身による全訳あり)、2022年6月6日
固有名詞の分類
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