スマラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/23 17:31 UTC 版)
歴史
スペイン領時代
この地域最大の都市であるスマラは1869年に旅行者・隊商のオアシスとしてサギア・エル・ハムラに作られた。また、都市の中央には1830年に築かれた石造の砦、ザウイイ・マーライン(Zawiy Maalainin)があり、1912年まで砦としてモスクを囲んでいた。このモスクは現在もその一部が残っている。スマラは、1902年にシャイフであるマ・アル・アイナイン(Ma al-'Aynayn)によりスペイン領サハラの首都となり、同時に宗教の中心地にもなった。スマラの位置が、人口の少ないサハラ砂漠でキャラバンによるサハラ交易の中心地になるだろうという予測もあり、スマラを首都にするための拡張工事がスルタン(君主)のハサン一世(Hassan I)により送られてきた職工や住民によって行われた。同年、マ・アル・アイナインはスマラは聖なる都市であると宣言し、スマラに移住した。彼が作った様々な建物の一つに、イスラム教の図書館があり、この都市は宗教学習の中心地となった。
1904年、マ・アル・アイナインはイマーム(指導者)を自称し、サハラへの支配を強めようとするフランスとのジハード(聖戦)を開始した。この戦役でマ・アル・アイナインはフランス軍に敗れ、図書館も破壊された。スマラは後にスペインに奪回されたが、1934年のサハラ人のスペインに対する反乱によって再び破壊された。
1975年以後
1975年、モロッコは、スペインの撤退にあわせ、マドリード協定(Madrid Accords)に基づき、サギア・エル・ハムラを掌握した。 1976年にポリサリオ戦線が保持していたスマラを、モロッコ軍が制圧した。 アルジェリアのティンドゥフ付近には、現在でもサハラ人(Sahrawi)の難民キャンプがある。サハラ・アラブ民主共和国政権がある4つのキャンプのうちの1つにはスマラにちなんで名前がつけられているものがある[2]。
現在、街は、モロッコ政府が南部諸州(Southern Provinces)と呼ばれる地域の一部として管理していて、砂の壁によって、囲まれている。
- ^ “Western Sahara”. Citypopulation.de (2015年4月1日). 2017年5月6日閲覧。
- ^ 難民問題を扱う非営利団体ARC(American Refugee Committee)によれば、ティンドゥーフから30kmほど離れたアシュワードキャンプに、ほぼ39,000人のサハラ人難民が居る。同じく5kmほど離れたラーユーンキャンプに推計39,000人。50kmほど離れたスマラキャンプには39,000人を超える避難民が居る。1979年から数え、避難民は4倍になる。
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