ステパン・マカロフ
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日露戦争までの来歴
ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日)に、ロシア帝国の領土だったウクライナのヘルソン県ニコラーエフ(現在のムィコラーイウ)で海軍准士官の家庭に生まれる。父の転属に伴いニコラエフスク・ナ・アムーレに移り、1858年、ニコラエフスク航海士学校に入学する。1865年、航海士学校を首席で卒業したが、父の希望により航海士ではなく、海軍士官候補生となる。
1867年、太平洋艦隊に配属される。1872年にバルト艦隊、1876年に黒海艦隊勤務となり、蒸気船「コンスタンチン大公」の艦長に任ぜられた。マカロフは、ロシア海軍における水雷艇運用・戦術論に関する第一人者のひとりであり、自らの発案によって、同艦を艦載水雷艇4隻搭載の水雷艇母艦に改造した。1877年、露土戦争において同艦と艦載水雷艇は実戦投入され、当初は失敗が相次いだものの、8月12日には、黒海のスフミ港外でオスマン帝国海軍の装甲艦「アーサール・シェブケト」に損害を与えた。このときに使用されたのは外装水雷であったが、マカロフ艦長は発明されたばかりの自走水雷(魚雷)にも注目しており、自ら海軍大臣に働きかけて入手すると、艦載水雷艇に搭載した。これは12月16日にバトゥミ港外で実戦投入されたが、このときは失敗した(1発は錨鎖に衝突して弾頭が外れ、もう1発は火薬の不良で不発)[注 1]。続いて翌1878年1月14日深夜、やはりバトゥミ港外において、砲艦「インティバフ」を艦載水雷艇2隻が襲撃し、各艇1発ずつを命中させてうち1発が炸裂、同艦を撃沈したことで、「史上初めて魚雷によって敵艦を撃沈した」という栄誉を得た[2]。
1880年から1881年、アハルテキンの中央アジア探検隊に参加。1881年から1882年には蒸気船「タマーニ」、1885年にはフリゲート「ポジャールスキー公」の艦長を務めた。
1886年にはコルベット「ヴィーチャシ」の艦長に就任し、1886年から1889年と、1894年から1896年の2回に渡って世界一周航海に出ている。2度に渡る航海では、総合的な海洋調査を実施し、研究の成果を『ヴィーチャシ号と太平洋』にまとめて発表した。また海軍戦術論の大家としても世界的に知られ、著書である『海軍戦術論』は世界各国で翻訳され、邦訳された物は東郷平八郎や秋山真之のほか日本海軍の将兵が必ず精読するような名著であり、東郷は自ら筆写したものを戦艦三笠の私室に備えていたという。
1890年、少将に昇進し、バルト艦隊最年少の提督となり、1891年、海軍砲術主任監察官となる。1894年、戦艦「ニコライ1世」に座乗し、1895年、極東に赴任、艦隊司令長官に就任する。1899年と1901年に北極探検を実施し、この時砕氷船を構想し、世界最初の砕氷船「イェルマーク」の建造を命じている[1]。また砕氷船をバイカル湖にも導入、フェリー「バイカル」と貨客船「アンガラ」を就航させた。
注釈
出典
- ^ a b “マカロフとは”. コトバンク. 2020年5月23日閲覧。
- ^ a b Polutov 2012.
- ^ 富山市史編纂委員会編 『富山市史 第二巻』p130 1960年 富山市
- ^ a b 岩城之徳「啄木と日露戦争」『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、pp.30 - 33
- ^ 岩城之徳「啄木と日露戦争」『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、pp.23 - 25
- ^ 濱田浩一郎『日本人はこうして戦争をしてきた』青林堂、2012年 ISBN 4792604540
- ^ 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』扶桑社、2016年 ISBN 4594075681
- ^ 岩城之徳「平成新時代の啄木研究展望」『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、p.100
- 1 ステパン・マカロフとは
- 2 ステパン・マカロフの概要
- 3 日露戦争までの来歴
- 4 日露戦争
- 5 脚注
- 6 外部リンク
固有名詞の分類
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