ステパン・マカロフ 日露戦争

ステパン・マカロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/09 08:19 UTC 版)

日露戦争

最期の乗艦となった戦艦「ペトロパヴロフスク」
クロンシュタットのステパン・マカロフ記念碑。台座には砕氷船イェルマークでの探検や旅順でのペトロパブロフスク爆沈などを描いたレリーフが飾られている

ロシア太平洋艦隊司令長官への就任

1904年日露戦争が起こる。第四次旅順攻撃で日本海軍の奇襲を許しその責任を追及されて解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフは3月8日にロシア太平洋艦隊司令長官に就任した。攻撃精神に富むとともに計画性・最先端技術への理解が深くロシア海軍屈指の名将との評価も高いマカロフの着任は、その相手となる日本連合艦隊にとっては非常な脅威であり、太平洋艦隊の士気も大いに上がった。

旅順着任直後に日本海軍による第四次旅順攻撃を受けるが、マカロフは自軍の水雷艇ステレグーシチイが猛攻を受けていると知り、自ら巡洋艦ノーウィックに座乗して出撃した。結局ステレグーシチイは救えなかったが、このようなマカロフの常に陣頭指揮を行う行動や飾らない人柄は部下将兵に好意的に受け入れられ、「マカロフ爺さん」と呼ばれ親しまれるようになっていく。

マカロフは士気が低下していた将兵の意識改善や体制改革に取り組み、常に部下の士官や下士官と会話を交わしつつ、ロシア太平洋艦隊の現状掌握に努めた。また損害を受けない範囲で可能な限り自艦隊を港外に出して練度の向上を図り、日本艦隊との交戦も辞さなかった。

戦死

轟沈するペトロパブロフスク

一方、第二回旅順口閉塞作戦に失敗した連合艦隊は、旅順口攻撃の一環として旅順の封鎖を機雷敷設によって行うようになる。

1904年4月13日、機雷の敷設を行っていた連合艦隊の駆逐艦4隻と偵察をしていたロシア艦隊の駆逐艦1隻による、遭遇戦が発生した。ロシア艦隊の駆逐艦はたちまち撃沈されるが、その情報を知ったマカロフは旗艦である戦艦「ペトロパブロフスク」に座乗し、戦艦5隻・巡洋艦4隻を率いて生存者の救援と日本艦隊の攻撃に向かう。

日本の主力艦隊を認めると旅順港に引き返すが、座乗していた旗艦ペトロパブロフスクが日本軍の敷設した機雷に触雷し爆沈。マカロフは避難しようとしたが間に合わず、乗組員500人と共に戦死した。一説には秋山真之が過去の出撃パターンから予測されるロシア艦隊の航路を割り出し、予めそのエリアに機雷を散布していたとも言われる。

日本では、マカロフ戦死の報を受けて、都市部で戦勝を祝う提灯行列などが行われた[3]

戦死の影響

マカロフの戦死はロシア太平洋艦隊の将兵に衝撃を与えたと伝えられる。

日本では戦死したマカロフを哀れむような詩や短歌が新聞に載った[4]。その中で石川啄木は、「マカロフ提督追悼の詩」を1904年6月13日に作って『太陽』8月号に発表し(当時の題は「マカロフ提督追悼」)、翌1905年5月に刊行した詩集『あこがれ』に収録した[5]。この中で啄木は、

君を憶へば、身はこれ敵国の

東海遠き日本の一詩人、
敵乍(なが)らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神も跪(ひざま)づけ、
敵も味方も汝(な)が矛地に伏せて、
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。)

ああ偉いなる敗将、軍神の
選びに入れる露西亜の孤英雄、
無情の風はまことに君が身に

まこと無情の翼をひろげき、と。

と敵将の死を悼んだ。この作品について、山本健吉が「敵ながらあっぱれと称賛する姿勢」と評したのに対して、岩城之徳は啄木の姿勢は「あっぱれ」の原義である「あはれ」に含まれる同情ではなく、「孤英雄」と表現したマカロフを「死を恐れず雄々しく戦った」人物として描き、同時代の日本の詩歌作品と異なる点を指摘している[4]

アメリカに特使として派遣され、広報外交を行っていた金子堅太郎は、演説の中でマカロフへの哀悼のコメントを発し、アメリカ世論からの支持を取り付けることに成功した[6][要ページ番号][7][要ページ番号]

マカロフを顕彰する記念碑が、生地であるウクライナのムィコラーイウやロシアウラジオストクにある他、いくつかの艦船にはアドミラル・マカロフ(マカロフ提督)の船名がつけられている。クロンシュタット軍港の銅像に付された詩文は石川啄木の詩が原典ではないかと言われたことがあったが、研究者の現地調査により、ロシア人の詩人による作であると確認されている[8]


注釈

  1. ^ ロシア・ソビエト連邦国内では、これが世界初の実戦での魚雷攻撃であると称されているが、実際には、同年5月29日にイギリス海軍の装甲蒸気フリゲート「シャー」がペルー反乱軍の装甲艦「ワスカル」に対して発射したものが世界初である(このときは命中しなかった)[2]

出典

  1. ^ a b マカロフとは”. コトバンク. 2020年5月23日閲覧。
  2. ^ a b Polutov 2012.
  3. ^ 富山市史編纂委員会編 『富山市史 第二巻』p130 1960年 富山市
  4. ^ a b 岩城之徳「啄木と日露戦争」『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、pp.30 - 33
  5. ^ 岩城之徳「啄木と日露戦争」『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、pp.23 - 25
  6. ^ 濱田浩一郎『日本人はこうして戦争をしてきた』青林堂、2012年 ISBN 4792604540
  7. ^ 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』扶桑社、2016年 ISBN 4594075681
  8. ^ 岩城之徳「平成新時代の啄木研究展望」『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、p.100






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