ギリシャ独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 01:23 UTC 版)
独立への決起
孤立する蜂起軍
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1820年12月、スーリ地区の山岳民とアリー・パシャらが結びついてイピロスでオスマン軍と激突した[65]。このためオスマン帝国スルタン、マフムト2世は弱体化しつつある帝国の権威を取り戻そうと、ギリシャ本土の多くを支配した実力者アリー・パシャの殲滅(せんめつ)を考えて兵を動かした[69]。さらに年開けの1821年1月、フィリキ・エテリアを敵視していたアレクサンドロフ・スーツォフ (英語版) が死去、ワラキア公国に政治的空白が生じた。他方でテオドロス・コロコトロニス (英語版) はペロポネソス半島各地で蜂起を呼びかけていた(後にギリシャ独立戦争に参加)[70]。
この事態に対してフィリキ・エテリアは利害関係からアリー・パシャと同盟を結んでいたため[# 16][72]、これを好機として、挙兵を決定した[# 17][69][74]指導者アレクサンドロス・イプシランディスは、弟らを伴いキシナウから西へ向かった[65]。
1821年3月26日(旧暦2月22日)にイプシランディス率いる一隊はルーマニア国境のプルト川を越えヤッシーで蜂起、ここにギリシャ独立戦争が開始された[65][68]。イプシランディスは渡河中、古代ギリシャの土地を解放することを誓ってエパミノンダス、タラシブロス (en) 、ミルティアデス、テミストクレス、レオニダスら古代ギリシャの英雄らの加護を祈り[69]、革命を宣言して[75]、各地のギリシャ人へ決起を呼びかけた[76]。
4月になるとオデッサから部隊が到着[# 18]して物資を補充、その上、ロシア在住のギリシャ人らも資金調達に携わり義勇兵に志願した[# 19]。また、一部のロシア軍将校らもフィリキ・エテリアに武器を与えるなどの協力を行った。イプシランディスの計画では南ロシアのギリシャ人、モルドバのフィリキ・エテリア会員らを集めてワラキアとモルドバ両公国を占領、その上でドナウ河を渡ればセルビア、ブルガリアの人々が同調すると見込んでいた[77]。イプシランディスの元に集結した志願兵は約7000名、ロシアやモルドバ、ワラキア両公国のギリシャ人、ロシアのコサック兵、バルカン諸民族の人々で構成されたものの[# 20][63]、当初の予想を大きく下回る人数であった[78]。
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イプシランディスは戦線拡大を図り、ルーマニア人トゥードア・ヴラディミレスク率いるルーマニア人名士(ボヤール)の1821年1月の反乱を利用して[# 21][63]、ロシアの介入が近いと宣伝した。しかし、イプシランディスが頼りにしていたロシア皇帝は支援するどころか、イプシランディスの軍籍を剥奪した上でこれを激しく非難、非介入の態度を示し、さらにオスマン帝国を支援する姿勢さえ見せた[# 22][64][81][68][74]。これとは別に、大部分のルーマニア人らは大部分のセルビア人やブルガリア人らと同じく、ギリシャ人は抑圧者でありファナリオティスや金貸しとしてオスマン帝国に同調したような者になびく気はなかった[# 23][69][64]。そのため、イプシランディスはセルビアのオブレノヴィチへ密使を送りギリシャとの永久攻守同盟を提案しようと試みるが、この密使はオスマン帝国に捕らえられ殺害された[# 24][78]。さらに悪いことに、4月に入るとヴラディミレスクはロシアに否定的な立場にあったことから、自分たちの目的と異なるという理由で、フィリキ・エテリアへの協力を拒否した[75][82][78]。
一方でオスマン帝国はイプシランディス率いる義勇軍の活動をすでに掴んでおり、ドナウ川南岸へ兵を送った。そのため、イプシランディスが当初考えていたドナウ川を強行突破してギリシャへ至る作戦は実行不可能となる。帝国軍は他方、1821年5月にワラキア、モルドバへ一斉に進攻、5月27日、ブカレストを再び帝国勢力下に置いた。この状態にいたりブカレストを退去済みであったヴラディミレスクだが、オスマン帝国と手を結びフィリキ・エテリアの背後を襲うという噂が広まったため、イプシランディスはウラディミレスクを捕らえて処刑した[83]。
このような状況に陥ったイプシランディスはブルガリア人が蜂起してオスマン帝国軍を牽制することを望んだが、小勢力であったブルガリア人らは動こうとしなかった[81]。やがてイプシランディスの部隊は徐々に疲弊し、1821年6月、ドラガツァニの戦いでオスマン帝国軍に敗退するとイプシランディスはオーストリアへ逃亡[# 25][63][69][81]。セルビア人とブルガリア人を加えたギリシャ混成部隊はセク修道院で、イプシランディス軍やヴラディミレスク軍はプルート川沿いのスクレニで撃破された[86][74]。
ギリシャ各地で立ちのぼる炎
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しかし、6月23日にはペロポネソス半島南部の都市カラマタを反乱軍が掌握した他、パトラ、マケドニア、クレタ島、キプロスなどでも反乱の火の手があがった。オスマン帝国の当局は反乱を全く予期しておらず、ペロポネソス半島を中心とした地域が反乱軍の支配下に入ったが、ギリシャ人全体が蜂起したわけではなかった[60][87][# 26]。しかし3月中旬、カラヴリタの戦いで火蓋が切られ、さらに3月21日にはマニがコロコトロニス主導の元で武装蜂起[86]、23日にカラマタを占領して「メッセニア議会(民会)」を開設した[93]。1821年3月25日にはパトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノスが聖ラヴラ修道院で十字架を掲げ『自由か、さもなくば死か』と叫び、ギリシャ人兵士らに向かって戦いを宣誓し「革命政府(ディレクトリア)」を開設した。この3月25日はギリシャ独立記念日として今なお祝われている[# 27][94][92][86][74][93]。そして3月28日、メッセニア評議会(コロコトロニス派)はギリシャ独立へ向けて革命を開始したと宣言[# 28]、月が変わると4月2日、ペロポネソス半島で燃え上がった炎は中央ギリシャ東部へ飛び火、4月中旬にはプサラ島とイドラ島、5月にはテッサリア、6月にはクレタ島が蜂起した[96]。
それを知ったオスマン帝国スルタン、マフムト2世は激怒し、聖戦(ジハード)の準備をするよう命じてムスリムらにイスタンブールその他の街のキリスト教徒らを略奪、虐殺させた。オスマン政府はファナリオティス高官や正教会の主教らを処刑、これにはコンスタンティノープル総主教、グリゴリオス5世も含まれていた。さらにこの虐殺はペロポネソス半島にまで至ったため、当初、蜂起に参加することに躊躇していたギリシャ人らもこれに参加するようになった[97]。
クレタ島での状況
ペロポネソス半島で蜂起が発生するとクレタ島ではペロポネソス半島へ送る寄付が募られ、武装蜂起準備が行われたが、これに対してムスリムらはキッサモスの司教など数十名の正教徒、大司教、司祭などを殺害した。そのため、正教徒住民らはスファキアを中心に蜂起したが、オスマン帝国が有利な状況であった。そこでペロポネソス半島よりミハイル・コムネソス=アフェンドゥリエフ[# 29]がクレタ島へ向かい蜂起を統率した[98]。
1822年、蜂起はクレタ島全域に及び、ムスリムたちもカンディア、レスモ、ハニアなどの要塞に撤退せざるをえなくなり、蜂起側の有利な状況になっていた。そして5月、アルメニウスに集まった蜂起軍はペロポネソス半島との統合を決議したが、これはムハンマド・アリーの介入により失敗に終わった[99]。
混迷する状況
特にペロポネソス半島での蜂起は辺境であること、在地オスマン帝国軍司令官フルシト・パシャ (英語版) がイピロスのアリー・パシャ討伐のために遠征していたことからギリシャ反乱軍の本拠地と化したが[# 30][60]、ギリシャ南部の山がちで島の多い地形に助けられていたことが大きく、そしてギリシャ軍に参加した諸勢力が様々な思惑や利益から参加していたに過ぎず、不統一な戦闘集団に過ぎず、内陸部、ペロポネソス半島、島嶼部などにおいて指導者もちがい、さらにファナリオティス対ゲリラ指導者、地主対農民、富裕な船主対船員などの対立か生じていたため、呉越同舟的な一面を持っていた[101]。
そのため、1821年以降、オリンポス (英語版) 、マケドニアにまで広がった勢力のうち、独立戦争終結時まで拠点でありつづけたのはペロポネソス半島、ギリシャ本土と周辺の島嶼部、そしてサモス島にすぎなかった。それ以外の地域ではまず独立への戦いに躊躇していた有力者らを打破しなければならず、サモス島とイドラ島ではオスマン帝国との戦いの前に、有力者に対する反乱が発生した[102][103]。
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オスマン帝国軍は数でこそ優っていても、残虐な行為を含む戦闘とゲリラ戦の経験の豊富なクレフテスらの奮闘、海戦になれたギリシャ軍の前に撤退を余儀なくされた[88]。また、親ギリシャ主義が広まっていたヨーロッパ各国ではギリシャの反乱に対する同情が広がっていた。ギリシャはヨーロッパ文明の源であり、当時盛んだったロマン主義の観点からも、キリスト教諸国が一致してギリシャ独立支援にあたることが支持され、ジョージ・ゴードン・バイロンに代表されるヨーロッパ各国からの義勇軍が組織され、ギリシャに赴いていった[# 31][104]。
この義勇軍の中には古代ギリシャという幻想を抱いて参加した人々がおり、想像した古代ギリシャのペリクレス時代とは違うアテネ市民に幻滅を感じた者もいたが、ギリシャ人らの行動を自らが持つ思想の実験場とした者や純粋に理想主義から活動した者もいた[88]。
注釈
- ^ この出典によると、1824年の方が80万ポンド(発行価格59%)、1825年の方が200万ポンド(発行価格56.5%)である。著者は「少なくともギリシア公債に関するものについては、払い込まれた額の僅かな部分しか目的地に、すなわちギリシア政府の手中に達しなかった。残りは発行業務を行っている金融業者の店によって主張された注文の形式で無駄に消費されたのである。そこで彼らは、ジブラルタルにも着くことのできなかったフリゲート艦や、使用しようと思うや否や爆発した火器を買わされたのであった」と分析している。
- ^ このギリシャ文庫は1805年以降、20年以上かけて出版されたが、ホメロスの時代からプトレマイオス朝までのギリシャ古典が集められていた。そして西欧で成功したギリシャ商人らがこれらを買い求めた[21]。
- ^ イェニチェリの将校らのこと。当時、ベオグラード・パシャリクの実権を事実上、掌握していた[10]。
- ^ この第一次露土戦争はロシアの勝利に終わり、キュチュク・カイナルジ条約が結ばれた[24]。
- ^ 18世紀末、ギリシャでは「アガタンゲロスの予言」と「賢者レオの予言」という噂が広まっており、ともにロシアがギリシャを解放するという内容であった。「アガタンゲロスの予言」は正教徒司祭テオクリトス・ポリエイデスが編纂した汎正教主義の予言であり、一方で「賢者レオの予言」では1773年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを追放されるとされていた[9]。
- ^ 1790年以降、ヴロラ、ベラト、チャメリア、テッサリアを勢力下としてヤニナ公国として統治していた[33]。
- ^ 1799年にナポレオンによって禁じられた民族舞踊の名称。フランス革命に参加した過激派がこの名称を名乗っており、ギリシャの共和主義者らはこれを真似て自称した[36]。
- ^ このイオニア七島連邦国には後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスも評議会の行政長官として参加していた。カポディストリアスは憲法制定にも参加して外交、商業、教育の責任者として働き、さらにイオニア諸島のレフカダ島へ侵攻したアリー・パシャとの戦いでは軍事司令官として戦っている[38]。
- ^ カポディストリアスはこのイオニア七島連邦国での経験から自らがギリシャ人である意識を強く持ち、ギリシャ人にこだわらずバルカン半島の諸民族をオスマン帝国支配下から解放することまで考えていたという[22]。
- ^ 柴『バルカン史』によればイスタンブールでの蜂起を含むバルカン半島全体で蜂起を行い、『祖国(ミテーラ・パトリーザ)』の解放を目指していたとされている[53]。
- ^ フィリキ・エテリアはその後もセルビアと接触を持ち、セルビアとの共闘を目指したが、ミロシュはオスマン帝国と折り合いをつける方針を採用していたため、協力することはなかった[54]。
- ^ 当時、カポディストリアスがフィリキ・エテリアの会員であるという噂が一人歩きしていたがこれは事実ではなかったが[56]、その一方でフィロムソス・エテリアという組織を発足させており、このフィロムソス・エテリアと混同されることがあった[57]。ただし、後のフィリキ・エテリア指導者アレクサンドロス・イプシランディスによればカポディストリアスはフィリキ・エテリアに参加したとされているが、カポディストリアス本人はこれを否定している[58]。
- ^ カポディストリアスによればフィリキ・エテリアの計画は愚かしいもので失敗は必然と考えており、そのためギリシャはセルビア公国のような自立的な立場を目指すべきと考えていた[59][57]。そしてギリシャ独立への動きに関する情報を収集し、それらをオデッサ、モルドバ、ワラキアのギリシャ人指導者層やマヴロコルダトスらなどに注意を喚起した[57]。
- ^ 当初、ペロポネソス半島での蜂起や[63]、セルビア、ブルガリア、ワラキア、モルドバ、エーゲ海島嶼部、マニ、メッセニア、トラキア、イピロス、モレアそしてロシアで革命を展開するという方針であったが[61]、イプシランディス参加後、ロシアの支援を受けた上で、ワラキア、モルドバ両公国へ解放者として侵攻して陽動作戦を行い、ペロポネソス半島を中心とするギリシャ本土に反乱を起こさせて共同戦線を張ることによりオスマン帝国に対応できなくさせ、さらにロシア王室から皇帝を選んでギリシャ帝国を建設するというものに変更されたが[64][54]、これは1812年のブカレスト条約でワラキア、モルドバ両公国にオスマン帝国の駐留が認められておらず、さらに両公国にはギリシャ人が多数、住んでいたこと、ペロポネソス半島では準備が整っていなかったことが関係している[65]。
- ^ セルビア人、ブルガリア人らは自らの民族運動を整えつつあり、大部分のセルビア人、ブルガリア人らはギリシャが覇権を握ることに反感を持っていたが[59]、モルドバ、ワラキア両公国の公の息子らがフィリキ・エテリアを信奉していたことから支援が受けられると判断されていた[54]。また、一部のブルガリアの都市、スリヴェン、プロヴディフ、ガブロヴォなどではエテリアを支持する勢力が存在していたため、ブルガリアでも蜂起を計画していたが、あまりにも勢力が小さかったため、蜂起には加わらなかった[66]。
- ^ 柴によればイプシランディスはアリー・パシャの打倒を目指していたとしている[71]。
- ^ なお、アリー・パシャは持久戦を取ってオスマン帝国がフィリキ・エテリアの鎮圧に軍を割くことを期待していたが、オスマン帝国はアリー・パシャの包囲を解くことはなかった。そのため、アリー・パシャは1822年1月に裏切りによって殺害、アリー・パシャの勢力は消滅し、戦闘は終了したが、1年半渡ってオスマン帝国を釘付けたことから、アリー・パシャはギリシャ独立の影の功労者とも言える[73]。
- ^ この部隊は砲13門、小銃125丁、サーベル99本、弾丸12万3300発、火薬1万1772キログラムと必要物資を持ってきた[76]。
- ^ この資金調達で5万5千ルーブル、千フロリンが集められた[76]。
- ^ このフィリキ・エテリアとヴラディミレスクの蜂起には第1次セルビア蜂起の参加者であるハジ・プロダン、ラーデ・ヴチニッチ、ステファン・ジヴコヴィッチ・ニシャリア、ステファン・ジヴコヴィッチ・テレマックらやロシア軍の元ブルガリア人部隊に所属していたハジ・ハミル、カプタン・コイチョらが参加していた[54]。
- ^ トゥードア・ヴラディミレスクはワラキアの民兵隊の隊長。1814年より反乱の準備にとりかかっており、フィリキ・エテリアとも密命を結んでいた[79]。
- ^ ヘッシュによればカポディストリアスもしくはロシア政府が直接、間接を問わずにフィリキ・エテリアの蜂起に関わった証拠はないとしている[80]。
- ^ 本文に記載したのはクロッグによるもの。矢田によればギリシャ人、アルバニア人、セルビア人、ブルガリア人、モンテネグロ人の義勇兵がイプシランディスの元に集まり、ブカレストを占領したとしている[79]。
- ^ 阿部によればこの密使がたとえオブレノヴィチの元にたどり着いたとしても当時、セルビア内部で内紛があったことから協力することはなかっただろうとしている[78]。
- ^ なお、フィリキ・エテリアの蜂起の影響でワラキア、モルドバの両公国を牛耳っていたギリシャ人であるファナリオティスらがオスマン帝国によって粛清され、両公国の君主にはルーマニア人貴族が任命されるようになった[84][85]。
- ^ ペロポネソス半島で発生した反乱についてはフィリキ・エテリアの蜂起に関係があったかどうかは異論が存在する。クロッグによれば、エテリアの蜂起とペロポネソス半島での蜂起の関係はどの程度まであったのかどうかはっきりしていないとしており[88]、柴[89]、周藤、村田らも同じ意見である[87]。しかしウッドハウスによれば、ペロポネソス半島にアレクサンドロス・イプシランディスの弟、ディミトリオス・イプシランディスが軍事指揮官として派遣されていることや、エテリアにおける他の指導者的立場のギリシャ人らがギリシャ各地に送り込まれるなどしたため、協調行動であったとする[90]。また、スボロノスによれば、ディケオス・パパフレサスや結社の他の会員が躊躇する有力者を屈服させた上でペロポネソス半島やギリシャ本土、エーゲ海島嶼部で革命を宣言したとする[75]。木戸によれば半島の有力者たちは日和見的態度を取っており、フィリキ・エテリアとオスマン帝国を両天秤にかけていた。しかし、オスマン帝国政府が事態を掌握するためにペロポネソス半島の有力者を招集しようとしたため、人質にされることを恐れた有力者たちは僧院に集まり、オスマン帝国への戦いを選んだとしている[91]。百瀬によればエテリアの組織網がペロポネソス半島に形成されており、エテリアが蜂起したという情報がペロポネソス半島での蜂起を導いたとしている[92]。一方でジョルジェヴィチ、フィッシャー・ガラティによればイプシランディスとフィリキ・エテリアが出した檄文を手に入れたギリシャ各地の教区長は1821年1月末にペロポネソス半島のヴォスティツァに集合、モルドバ・ワラキア両公国、セルビア、ロシアのモルドバ進攻が開始されたらそれに呼応して蜂起する計画を採用したとしている[86]。
- ^ ただし、3月25日にギリシャ独立戦争が勃発したわけではなく、それ以前からイドラ、プサラ、スペッツァ、などで蜂起が始まっており、早い段階で有利な情勢になっていた[74]。
- ^ この宣言は「カラマタ宣言」と呼ばれており、モレア蜂起を世界最初に宣言したものとなった。なお、この宣言はフィリキ・エテリアの文書ではなく、ペトロス・マヴロミハリスの署名が成されていた[95]。
- ^ ロシア系ギリシャ人、一説によればビザンツ帝国コムネヌス朝の末裔とされる[98]。
- ^ 1822年2月までオスマン帝国はアリー・パシャの殲滅を最大目標としていた[100]。
- ^ ただし、バイロンは1824年1月にメソロンギに到着はしたがすぐに病死したため、戦いには参加していない[87]。
- ^ 皮肉なことにグリゴリオス5世はアレクサンドロス・イプシランディス、ミハイル・スツォス、モルダヴィアのギリシャ反乱軍をオスマン帝国皇帝や聖なる神の意思に背くものとして幾度も非難する回勅を発していた[105]。
- ^ 政府の中心を成していたのはペロポネソス半島のコジャバシ(土豪)であった[100]。
- ^ 周藤・村田によれば1822年1月[112]。
- ^ 憲法の起草にはネグリスとマヴロコルダトスらが携わった[100]。
- ^ この時、大統領にペトロビー(Petrobey)が選出されたが数カ月で解任された[121]。
- ^ 後にシリアが割譲されるが、これはペロポネソス半島での戦いやナヴァリノの開戦でうけた壊滅的打撃の代償としてムハンマド・アリーが要求したことによる。そしてそれまで良好であったマフムト2世とムハンマド・アリーの関係はこれ以降、悪化する[125]。
- ^ メッテルニヒによればギリシャでの出来事は暴動でヨーロッパの諸列強を分断するもので、ロシア・オーストリア間の間に楔を打ち込むものだとしている[132]。
- ^ この時、親フランス派、親ロシア派も動きを見せたが、これは実を結ばなかった[140]。
- ^ イギリスが単独で介入するとイギリス対オスマン帝国の図式が出来上がり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込む可能性があった。そしてこの戦争が発生した場合、ギリシャが独立する利益を失うことをカニングは予想していた[140]。
- ^ ただし、藤井によればアレクサンドル1世はオーストリアとの協議の結果、1822年8月1日にメッテルニヒとの協力は不可能であると宣言したとある[136]。
- ^ ロシアはこの時、バルカン半島の正当な統治者はあくまでもオスマン帝国であると考えていたことから完全独立は否定しており、オスマン帝国宗主権内での自治国化を与えることを考えていた[142]。
- ^ これはギリシャ暫定政府大統領マヴロコルダトスがストラッドフォード・カニングと会談して、非公式に受けれいたものである[146]。
- ^ ヨーロッパの王家のいずれにも血統が繋がらないサグセン=コーブルク家もしくはザクセン公をギリシャ国王とすることを計画していた[136]。
- ^ さほど力は強くなかった[136]。
- ^ オルレアン家から国王を迎えてイオアニス・カポディストリアスを指導者とすることを計画していた[136]。
- ^ これは宣戦布告をせずに戦いに至ったためであり、オーストリアのメッテルニヒも怒りを示している[145]。
- ^ 周藤、村田によれば1827年3月[149]。
- ^ 当時、休職中ではあったがロシア外務次官であったカポディストリアスが選ばれたのはカポディストリアスがウィーン会議に参加したように経験豊富な外交官であり、また、イギリス、フランス、ロシアと対等に交渉できる人物として選出された[149]。
- ^ カポディストリアスによればギリシャの独立はあくまでも列強国の妥協による「棚からぼたもち」的なものであり、成熟したギリシャ人らが自ら進んで得たものではないとしていた。そのため、ギリシャが本当の独立を得るには自ら強力な指導力を発揮してギリシャ人の教育を行わなければならないと考えていた[151]。
- ^ カポディストリアスの意思背景には各種異論が存在する。スロボノスによれば、ロシア党のコロコトロニスの協力を得た上でギリシャをロシア皇帝の意図に沿わせることを意図していたとしている[153]。しかし、周藤・村田によればイギリス、フランスらは当初、カポディストリアスに対してロシアの手先というイメージを持っていたが、後にこのイメージは払拭されたとしている[149]。また、ウッドハウスによれば、カポディストリアスはロシアの代理人としてではなく、一人のギリシャ人として考え、行動したとしている[155]。
- ^ モルドバ・ワラキア両公国とセルビアにおけるロシアの特権についての履行が規定されていた[158][139]。
- ^ カポディストリアスは大司教を「キリスト教徒のトルコ人」、軍指導者を「追い剥ぎ」、知識階級を「たわけ者」、ファナリオティスを「悪魔の子供」とこき下ろしていた[165]。
- ^ スロボノスや桜井によれば、カポディストリアスはギリシャ人国家の設立に真剣に取り組んでいたが、ロシア寄りの政策をとっているとしてイギリス、フランスが不信感を抱いていたため、反カポディストリアス派と手を組んで支援したとしている[168][166]。
- ^ この決定はあくまでもイギリス、フランス、ロシアの間で成されたもので、バイエルン王国を勢力圏とするオーストリアは完全に蚊帳の外に置かれた[145]。
- ^ たとえば1791年に出版されたフィリピディスとコンスタンダスによる著作『新地理』によるとハプスブルク帝国内にはオスマン帝国出身のギリシャ人が約40万人居たとされている。しかし、これはバルカン半島の正教徒商人全てをギリシャ人と見做した可能性が指摘されている[176]。
脚注
- ^ A.アンドレァデス 『イングランド銀行史』 日本評論社 1971年 p.293.[# 1]
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