ウルム 地勢・産業

ウルム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 14:35 UTC 版)

地勢・産業

ドナウ川の左岸、バーデン=ヴュルテンベルク州とバイエルン州の州境に位置する。商工業が盛ん。近隣の都市としては、ドナウ川の東側に隣接するノイウルム(新ウルムの意)、約70キロ東にアウクスブルク、55キロ西にロイトリンゲン、70キロ北西にシュトゥットガルトが挙げられる。

ウルムの近くに、ユネスコ世界遺産になっている後期更新世の洞窟遺跡群シュヴァーベンジュラにある洞窟群と氷河期の芸術 (Caves and Ice Age Art in the Swabian Jura) がある[2]

歴史

地名Ulmは、ブラウ川(die Blau)がドナウ川に合流する地点で生じる「大波」( Wasserschwall)あるいはドナウ川に合流するブラウ川という「支流」(Zufluss)を表したものだろう[3]

この辺りには、紀元後2/3世紀に人が居住した跡がある。5-7世紀にはアレマン人が居住していたらしい。7-8世紀には、南方向にはコンスタンツに、東方向にはアウクスブルクに通じる街道のドナウ川越の安全のために荘園のような施設があったと思われる。854年の文書によれば、 ルートヴィヒ1世はウルム王宮(Pfalz Ulm)で宮廷会議(Hoftag)を催している。ザーリアー朝においてもウルムは重要視され、ハインリヒ3世はこの地に7回滞在している。叙任権闘争の間、この都市は特に重視された。シュヴァーベンの貴族は1076年秋と1077年春にウルムに集まり、ルドルフ・フォン・ラインフェルデン(Rudolf von Rheinfelden)を対立王に推戴することに決めた。ところが、ハインリヒ4世カノッサの屈辱の後ウルム王宮で改めて王冠を頭上に戴き、敵には帝国追放を宣言している。ハインリヒ4世は1079年ウルムでフリードリヒ・フォン・シュタウフェン(Friedrich von Staufen)をシュヴァーベン大公に任じた。対する教皇側は1077年やはりウルムでルドルフ王の息子、ベルトルト・フォン・ラインフェルデン(Berthold von Rheinfelden)を対立大公に選んでいる[4]

11世紀ウルムで鋳造された貨幣が広い範囲で使用されている。12世紀前期ホーエンシュタウフェン家ヴェルフェン家はウルム支配をめぐって争ったが、フリードリヒ1世は最初の宮廷会議を1152年にこの地で催した。彼の治世中ウルム王宮はシュヴァーベンで最も重要な王宮であった。この頃、市域を囲む市壁が構築された。13世紀 市壁内に存在する宗教施設は、フランシスコ会の修道院だけであったが、市壁の外側にはドミニコ会の修道院や教区教会などがあった。14世紀にはミュンスター(大聖堂)の建設が始まり、市域は70 haにまで拡大した。周辺地域への現実の支配を確立して都市圏を形成し、帝国都市として最大の規模を有するテリトリーを支配するまでになっている。他の都市との同盟にも積極的で、シュヴァーベン都市同盟で指導的な役割を果たした[5]。17個のツンフトが市参事会の過半数を占めたが、市長職は都市貴族から選ばれた。交通の要衝という好条件のゆえに商業と繊維産業が栄えたが、高品質のフスティアン織(Barchent;裏をけば立てた綿布)は最も重要な収入源であった。15世紀印刷工場が多く建設され、ドイツ南西部における初期活版印刷の中心地となった。マルティン・ルター以前のベストセラーとなり、諸国の言語に翻訳され、日本でも16世紀末おそらくイエズス会宣教師らの翻訳をとおして日本人が初めてイソップ寓話に親しむことになるハインリヒ・シュタインヘーヴェル(Heinrich Steinhöwel)の『イソップ』(Esopus)もここで印刷された。1400年頃の人口は約9000人だったが、1500年頃は17000人にまで増加した[6]

ドナウ川沿いに位置したため(ドナウ川はウルムから船の航行が可能)、中世より交通の要衝として栄えた。12世紀には、帝国都市としての特権を認められた。1327年にはツンフト闘争を通じて、手工業者が市政に関わるようになった。14世紀後半に成立したシュヴァーベン都市同盟においては、中心的な役割を果たした。1619年、フランスの哲学者デカルトは、この街の近郊にある炉部屋での思索を通じて、生涯を通じて彼を虜にする「驚くべき学問の基礎」を見出したとされる。

1805年、20万を超えるナポレオンの大軍が、ウルム戦役オーストリア軍を撃破した。この2ヶ月後、ナポレオンはアウステルリッツの戦いで、オーストリア・ロシア軍に大勝を収めることになる。

第二次世界大戦においては、ウルム爆撃によって、旧市街の80パーセントほどが破壊される打撃を被ったが、大聖堂は奇跡的に無事であった。また、街も戦後に復興を果たして今日に至っている。

文化

指揮者カラヤンは、この街の市立歌劇場において、『フィガロの結婚』でオペラ指揮者デビューを果たし、以後5年間専属指揮者としてキャリア初期の拠点となった。


  1. ^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2021 (CSV-Datei)
  2. ^ 「ネアンデルタール人のほか、約43,000年前の最終氷期の頃にヨーロッパにたどり着いたとされる初期の現生人類の痕跡が残り、マンモスの牙から作られた小さな彫像やトリの骨から作られた楽器(フルート)が見つかっています」。楢沢優芽子「Tübingen留学の思い出」〔DAAD友の会『ECHO』38、2022年11月、42-44頁、引用は44頁。〕
  3. ^ Dieter Berger: de:Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern. Mannheim/Wien/Zürich: Bibliographisches Institut, 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 262.
  4. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 1190-1191.
  5. ^ このウルムをリーダーとし、西南ドイツ14都市が加盟したシュヴァーベン都市同盟は、「金印勅書に盛られた都市抑圧政策に対抗する」目的で1376年に結成されたものである。同盟は1385年には加盟都市40になり、別に1318年に再建されたライン都市同盟と合同して南ドイツ都市同盟という大同盟となったが、「団結がルーズであり、また異分子をふくんだため、この南ドイツ都市同盟はまもなく解消する」。今来陸郎『都市と農民――中世のヨーロッパ』至誠堂 1973年2月、109-110頁。
  6. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 1191-1193.- シュタインヘーヴルと「イソップ」については、Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 99-100. および小堀桂一郎 『イソップ寓話』(中公新書 523)中央公論社1978年、133-145頁他。
  7. ^ 森本智子『ドイツパン大全』誠文堂新光社、2017年、215頁。ISBN 978-4-416-51731-4 
  8. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 99-100. および小堀桂一郎 『イソップ寓話』(中公新書 523)中央公論社1978年、133-145頁他。
  9. ^ Günther Dietel: Reiseführer für Literaturfreunde. I: Bundesrepublik Deutschland einschl. Berlin . Frankfurt/M-Berlin: Ullstein 1965. S. 294 und 188.


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