イェヴヘーン・コノヴァーレツ 組織団体の設立

イェヴヘーン・コノヴァーレツ

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組織団体の設立

1919年ポーランド・ウクライナ戦争の終結により、ポーランドは西ウクライナ人民共和国が主張していた領土の大部分を接収し、その残りの領土はソ連に接収された。

コノヴァーレツは、ポーランドとチェコスロヴァキアの領土内にて、ウクライナ人で構成された軍事部隊を編成し始めた。しかし、1920年11月、ウクライナ革命は崩壊し、ポーランドとロシアの間で休戦協定が締結された。ウクライナの国家資格は喪失し、ウクライナ西部の土地は、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアに分割された[5]1920年7月30日、シーチ銃兵隊による会議がプラハで開催され、8月3日[1]ウクライナ軍事組織(Українська Військова Організація)が設立され、コノヴァーレツはこの組織の指導者となった。「ウクライナの土地に、ウクライナ人のための国家を建設する」との目標が掲げられた。この組織団体の活動は、軍事規律の導入と個人テロリズム[14]、将来の民族解放革命の利益に向けた妨害活動、諜報活動、破壊活動、ウクライナの国民国家復活のプロパガンダ、統一中央政府の確立にあった[5]1920年9月、ウクライナ軍事組織の初期の臨時機関がリヴィウで設立された。1921年7月20日、コノヴァーレツはリヴィウに戻り、ウクライナ陸軍士官学校の統率者となり、ウクライナ軍事組織の機関は再編された[14]1923年3月14日、ウクライナの西部・ハリチナがポーランドに併合されることが決まると、ウクライナ軍事組織は混乱状態に陥った。歴史家のオレスト・ミロスラーヴォヴィチ・スブテルヌイウクライナ語版は、「コノヴァーレツは、とくにポーランドにとっての敵国であるドイツとリトアニアとの接触を確立し、金銭および政治的支援を求めた」と書いた[14]1922年の春、コノヴァーレツはベルリンに向かい、ドイツの防諜機関である「アプヴェーア」(Abwehr)のフリードリッヒ・ゲンプドイツ語版と会談した。コノヴァーレツは「ウクライナ軍事組織が諜報活動で収集した情報について、ドイツの諜報機関に全て教える」との契約を書面で交わした。これと引き換えに、アプヴェーアはウクライナ軍事組織に対し、毎月9000ライヒスマルク(Reichsmark)を報酬として送った[14]。アプヴェーアからの要請に伴い、ウクライナ軍事組織は活動の拠点をウクライナの西部に移した。コノヴァーレツは、自分たちの現在の任務について、以下のように述べた。「ポーランドが我が祖国と講和条約を結んだ今、我々は、ポーランドとの闘争の旗を掲げざるを得ない状況にある。戦わなければ、我々は祖国のみならず、捕虜収容所においても影響力を失うことになる。捕虜収容所にいる我々の仲間たちの一人一人が、ピウスツキによる東ハリチナとヴォルィーニの占領に対する復讐の炎を燃やしている。しかし、ボリシェヴィキは依然として我々の不倶戴天の敵である。ポーランド人がそれを強要してくる限り、我々はポーランド人に立ち向かわねばならない」[14]

1923年の夏、コノヴァーレツはハリチナの組織の幹部をプラハに集めて会議を開き、国際情勢について報告した。コノヴァーレツによれば、ベルリンに滞在中、独立国家ウクライナの樹立を目指す民族主義者を支援するため、ドイツ政府の関係者およびドイツ陸軍参謀本部と協定を結んだという。ドイツ軍の将軍によれば、ヴェルサイユ条約の重荷を下ろすため、来たるべき戦争の準備をしており、近い将来、ソ連とポーランドに対して侵攻する計画を立てている趣旨を知らされた。コノヴァーレツは、ソ連とポーランドへの侵攻を実行する唯一の国としてドイツに重点を置く必要性について問題提起した。コノヴァーレツは、「ドイツは、ウクライナの民族主義者が敵国との戦いで積極的に協力してくれるのであれば、ウクライナの民族主義者を喜んで支援しよう、と約束してくれた」と結論付けた。ウクライナ軍事組織の全兵力をドイツ軍の司令部とドイツの諜報機関に委ねることを約束し、その指導のもと、ウクライナ民族主義者の地下組織の活動が実行されることになった[14]

コノヴァーレツとその仲間たちの目的は、外国に亡命中のウクライナ人の民族主義勢力を団結させ、共通の敵であるソ連と戦うことにあった。1929年1月28日から2月3日にかけて、第一回ウクライナ民族主義者国際会議がオーストリアで開催され、コノヴァーレツがこの組織の議長に選出された[1][14]。ウクライナ人の民族主義者による共同統一組織が結成された。1929年、ウクライナ民族主義者組織(Організація Українських Націоналістів)は、ウクライナの国内外に存在する民族主義組織とウクライナ軍事組織とを統合し、ウクライナを占領する外国に対する地下闘争を開始した[15]1929年に発刊されたウクライナ軍事組織の小冊子には「テロリズムは自衛手段であるだけでなく、扇動の一形態でもあり、望むか否かに関係なく、敵味方の双方に等しく影響を与えるだろう」と記述されている[16]

1929年以降、ウクライナ民族主義者組織は、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアにて、ドイツの諜報機関と協力し、活動していた。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)がドイツの宰相に就任し、権力を掌握すると、ドイツの諜報機関との協力関係はさらに強化された[1]1930年代初頭、コノヴァーレツはヒトラーと二度対面している。一度目は1931年[17]、二度目は1932年9月であり[1]、いずれもヒトラーが権力を掌握する前のことであった。ヒトラーは、コノヴァーレツの仲間に対し、ライプツィヒにあるナチス党訓練所で講座を受講してはどうか、と勧めた[1]1931年にコノヴァーレツがヒトラーと会談した際、ウクライナ民族主義者組織の活動について、ヒトラーは「ソ連に対してのみ実行し、ポーランドに対する攻撃を止めてくれるなら、あらゆる支援を実施する」と約束した[14][17]

コノヴァーレツは外国にも訪れた。1928年にはカナダを訪問し、ウクライナ軍事組織の支部が設立された[17]。コノヴァーレツは、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、リトアニア、アメリカ、カナダにいる組織の代表者とも連絡を取り合った[17]

1933年10月21日、リヴィウのソ連総領事館で働いていた書記官(その正体はソ連の諜報員であった)、アンドレイ・マイロフロシア語版が、ウクライナ民族主義者組織の構成員の一人、ミコラ・セメノヴィチ・レミックウクライナ語版の手で暗殺されたウクライナ語版。レミックはマイロフに二発の銃弾を浴びせて殺害した。1933年6月3日から6月6日にかけて、ウクライナ民族主義者組織の会議がベルリンで開催された。この会議で、ステパン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラ(Степан Андрійович Бандера)が組織の地域執行部の指導者に選出されるとともに、リヴィウのソ連の外交官を暗殺する決定が下された[18]。暗殺を完了したミコラ・レミックは、無抵抗の状態でポーランド警察に逮捕された。1933年10月30日、レミックはリヴィウ地方裁判所で死刑判決を受けるも、のちに終身刑に変更された。当時のポーランドの法律では、20歳未満の者に対しては死刑を宣告できなかった。1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、それに伴って生じた混乱に乗じてレミックは脱走した。のちに彼はゲシュタポに逮捕され、1941年10月に射殺された。

ソ連の外交官の暗殺の動機となったのは、1932年から1933年にかけて、ウクライナ全土を襲った大規模な飢餓「ホロドモール」(Голодомор)に対し、世界が関心を示さなかったことが大きい[18]。アンドレイ・マイロフ暗殺事件は、この飢餓に対する象徴的な報復行為として注目され、ソ連とポーランドの間の緊張状態の高まりに繋がった[19]。ステパン・バンデーラは「ボリシェヴィズムは、ウクライナ国家を破壊し、ウクライナ国民を奴隷化する制度であり、ウクライナ民族主義者組織はボリシェヴィズムと戦っているのだ」と語った[18]

1934年1月26日ドイツとポーランドは条約を結んだ。この条約の締結後、ウクライナ民族主義者組織に対するドイツの支援は縮小された。コノヴァーレツはリトアニアの諜報機関との関係を強化することにした。リトアニア当局は、ウクライナ民族主義者組織に虚偽の書類(旅券や許可証)を提供した[1]1936年の諜報情報によれば、コノヴァーレツはルーマニアが占領していたブコヴィナ(Bukovina)に、反ソ連の破壊活動の拠点を設置しようとしたという。戦争が起こった場合、ウクライナ民族主義者組織は、ヨーロッパ諸国、ソ連、ポーランドにて、ウクライナ国民に蜂起を促す手筈であったという[1]。ドイツとポーランドによる条約締結後、アプヴェーアはウクライナ民族主義者組織による反ポーランド活動を抑制し、その矛先を「ボリシェヴィズムに対して」向けるよう促した[20]1933年12月の時点で、コノヴァーレツはステパン・バンデーラに対し、「反ポーランド活動を止めるように」との指令を出していた。

1934年6月15日午後3時40分、ポーランドの内務大臣、ブロニスワフ・ピエラツキーポーランド語版が銃で撃たれて殺された。ピエラツキー殺害の実行犯は、ウクライナ民族主義者組織の会員の一人、フリホリー・マツイコウクライナ語版であった[21]。ポーランドはハリチナを併合し、同化・統合するつもりであった。「ハリチナ」の名前は「東小ポーランド」に変更された[21]。ステパン・バンデーラは、ブロニスワフ・ピエラツキーの暗殺も主導した[22]

ウクライナ軍事組織は、1921年9月25日ユゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski)を暗殺しようとするも失敗に終わっている[1]

アンドレイ・マイロフの暗殺事件を受けて、国家統合政治総局ロシア語版の議長、ヴャチェスラーフ・ルドルフォヴィチ・メンジンスキー(Вячеслав Рудольфович Менжинский)は、ウクライナ民族主義者の指導者を無力化する措置を命じた[5]


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