イェヴヘーン・コノヴァーレツ 暗殺計画

イェヴヘーン・コノヴァーレツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 15:43 UTC 版)

暗殺計画

パーヴェル・アナトーリエヴィチ・スドプラートフ

1937年11月、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)は、内務人民委員部の将校、パーヴェル・アナトーリエヴィチ・スドプラートフ(Павел Анатольевич Судоплатов)を迎え入れた。スターリンはスドプラートフに対し、「ウクライナ民族主義者組織の司令官を無力化する」任務を課した。この一週間後、クレムリンにて、スドプラートフは、スターリン、内務人民委員のニコライ・エジョフ(Николай Ежов)、全ウクライナ中央執行委員会ウクライナ語版委員長のフリホリー・イワーノヴィチ・ペトロウスキー(Григорій Іванович Петровський)の同席のもと、その計画案について報告した。ペトロウスキーは「1918年1月の蜂起で労働者の虐殺を組織した罪により、コノヴァーレツが欠席裁判で死刑判決を受けた」と発表した[5]

コノヴァーレツを暗殺したパーヴェル・スドプラートフがのちに書き残した回顧録『特別任務』によれば、スターリンは以下のように語っている。

「コノヴァーレツは、ドイツのファシズムの手先であるが、これは単なる復讐行為ではない。我々の目標は、戦争前夜にウクライナのファシズム運動を途絶し、権力闘争の過程でならず者同士を互いに戦わせて壊滅に追い込むことである」[23][1][5][24]

ヴァスィール・ヴォロディミロヴィチ・ホミャク(Василь Володимирович Хомяк)は第一次世界大戦中の1916年8月にロシア軍に捕らえられ、1918年までマリウポリ(Маріуполь)の捕虜収容所で過ごした。この年の秋に収容所から出た彼は、コノヴァーレツが組織する銃兵隊に加わり、ロシア軍と戦った。ホミャクはアンドリイ・アタナソヴィチ・メルヌィクウクライナ語版を通してコノヴァーレツと出会い、親しくなった。1921年ごろ、ホミャクはチェカ(Чека)に採用され、ソ連のために働くことになるが、この経緯については不明[25]。チェカは、ウクライナの反政府勢力組織を解体するため、ホミャクを利用した[25]1928年以降、ホミャクはウクライナ国外におり、ウクライナの独立のための闘争を続けているウクライナ解放運動の指導者の多くについて知っていた。チェカは、彼らに関するどんな小さな情報に対しても知りたがった。ホミャクは、アンドリイ・メルヌィクやイェヴヘーン・コノヴァーレツ、ロマン・キリロヴィチ・スシュコウクライナ語版ドミートロ・ユーリヨヴィチ・アンドリイェウスキーウクライナ語版ミハイロ・フェドロヴィチ・マチャックウクライナ語版らに関する情報を、チェカに提供した。

ホミャクが「ソ連のスパイである」と想定できた者はいなかった。コノヴァーレツが殺された直後、ウクライナ民族主義者組織の構成員たちは、ホミャクに対して深刻な疑念を抱いた[6]

パーヴェル・スドプラートフはメリトーポリ(Меліто́поль)の出身で、1933年までウクライナに住み、ウクライナ語に堪能であった。スドプラートフは、のちに書き残した回顧録の中で「自分はホミャクの甥であり、ソ連の現実に幻滅したコムソモールКомсомол, 「共産主義青年団」)の一員を演じた」と書いている[25]。ウクライナ民族主義者組織に潜入し、コノヴァーレツとの関係を確立するにあたり、スドプラートフはホミャクの甥を偽装し[25]、コノヴァーレツに会うことになった。当時のスドプラートフは、「パヴルス・ヴァリュフ」(Павлусь Валюх)の偽名を名乗っていた。スドプラートフは、ウクライナ民族主義者組織の一員を装い、ヨーロッパのさまざまな都市でウクライナ民族主義者組織の代表者と会った。スドプラートフは、コノヴァーレツとの信頼関係を徐々に築いていった。パリに滞在中、コノヴァーレツはスドプラートフをセモン・ペトリューラの墓に連れていった。ペトリューラは、1926年5月、サムイル・イサーコヴィチ・シュワルツボルトロシア語版に射殺された。ペトリューラは、内戦中のウクライナに住んでいたユダヤ人に対する虐殺について責任を負っていた[26]。スドプラートフは、ペトリューラの墓から土を一掴みし、ハンカチーフを取り出してその土を包んだ。スドプラートフは「この土をウクライナに持ち帰ります。彼を追悼する木を植えて、その木を育てるのです」と述べた[23]。これを聴いたコノヴァーレツは感激した。この出来事を経て、コノヴァーレツはスドプラートフに対する信頼を強めた。

スドプラートフは内務人民委員のニコライ・エジョフとともにクレムリンに招待され、ヨシフ・スターリンに謁見した。スターリンはスドプラートフに対し、「外国に移住するウクライナの政治家同士の関係について」を尋ねた。スターリンの質問に対し、スドプラートフは「ソ連に対する本当の脅威は、外国に移住している政治家ではなく、ドイツによる支援を受けて、ソ連との戦争の準備をしているコノヴァーレツの存在にある」趣旨を述べた。どうすればいいかを尋ねられたスドプラートフは、「今はまだ準備ができていない」と答えるのが精一杯であったという。スターリンは、「今から一週間以内に、行動計画案を提出して欲しい」と指示した[23]。一週間後の夜11時、エジョフはスドプラートフをクレムリンに連れていった。スターリンに加えて、フリホリー・イワーノヴィチ・ペトロウスキーもその場に同席した。ペトロウスキーが「1918年1月の蜂起で労働者の虐殺を組織した罪により、コノヴァーレツが欠席裁判で死刑判決を受けた」趣旨を述べると、スターリンは「コノヴァーレツは、ドイツのファシズムの手先であるが、これは単なる復讐行為ではない。我々の目標は、戦争前夜にウクライナのファシズム運動を途絶し、権力闘争の過程でならず者同士を互いに戦わせて壊滅に追い込むことである」と述べた。スターリンはスドプラートフに向き直り、「コノヴァーレツの好み、弱点、とくに愛着があるものとは、何かな?それを利用してみなさい」と尋ねた。スドプラートフはスターリンに対し「コノヴァーレツは、チョコレートに目が無いのです」「どこへ行っても、彼が真っ先にやることは、高級感の漂うチョコレートの箱を買うことなのです」と答えた。これを聴いたスターリンは「よく考えてみて欲しい」と答えた[23]。別れの際、スターリンはスドプラートフに対し、自分に託された特別任務の政治的重要性について、正しく理解できているかどうかを尋ねた。スドプラートフが「はい、党の任務を遂行するにあたり、必要とあらばこの命を捧げる所存でございます」と答えると、スターリンは「あなたの任務が成功しますように」と述べ、スドプラートフと握手を交わした[23]

内務人民委員部では、アブラム・スルツキー(Абрам Слуцкий)やセルゲイ・シュピーゲリグラス(Сергей Шпигельглас)がコノヴァーレツを殺害するための方策を練った。至近距離から銃で撃って殺す選択肢が提案されたが、コノヴァーレツは腹心のヤロスラフ・ヴォロディミロヴィチ・バラノウスキーウクライナ語版を伴って行動しており、この手段は不可能に近いものであった[27]。チョコレートが大好物であるコノヴァーレツに対し、お菓子の箱に偽装した時計仕掛けの爆破装置付きの贈り物を渡す方法が提案された。スドプラートフは、当初はこの考えに対して難色を示した。爆破装置の起動にあたっては、切替装置を静かに作動させる必要があり、目立つ箱はコノヴァーレツに警戒心を抱かせる可能性があった。チョコレートの入った箱に見せかけた爆発物の製造は、内務人民委員部の運用・技術部門の職員、アレクサンドル・エラストヴィチ・ティマシュコフロシア語版に任された。箱を垂直状態から水平状態に移動させると、その30分後に自動的に爆発が起こる、という仕組みであった。


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