アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)
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評価と後世への影響
人物評
『英国人名事典』はメイを「有能、誠実で称賛に値する公務員」(a most able, faithful, and meritorious public servant)と称え、多くの人から尊敬されたとした[2]。しかし、後世に庶民院書記官を務めたサー・ウィリアム・マッケイはメイが栄典に強い興味を持ったと指摘し、1884年に庶民院議長ブランドが首相グラッドストンにメイの枢密顧問官への任命を推薦したとき、メイが「ずうずうしくも『格別に適切』であると答え」、庶民院書記官から引退するときに賃金と同額の年金を求めたという[111]。また、公務員としては公正だったものの、社交界では自由主義者と親しく、また庶民院勤務の公務員に自由党党員の息子を推薦することが多かったという[136]。
議事規則本著者ベンサムとハットセルとの比較
「最大多数の最大幸福」で知られる功利主義の哲学者・経済学者・法学者ジェレミ・ベンサム(1748年 - 1832年)も議事規則について記しており(『Essay on Political Tactics』、1798年 - 1816年)、ベンサムと67歳年下のメイを比較したカリ・パロネン(Kari Palonen)の研究(2012年)が存在する[22]。
パロネンによると、ベンサムとメイは双方ともに議会運営の公平性を説いている点では共通する[22]。また、ベンサムも議題提出のタイミングや審議の長さといった時間に着目している[137]。しかし、ベンサムが議会の「部外者」であるため実務経験を持たず、議会で生じる可能性のある問題や議事規則で定めるべき点を列挙して、イギリスの議会のみならず立法議会全般に適用できるようにしたのに対し、メイは議会に実際に関わり、イギリスの議会史において繰り返して議論された議事規則の問題を事例を引用しつつ解説した違いがある[23]。
また、『アースキン・メイ』の初版序文でもメイ自ら言及している通り、メイ以前のイギリス議事規則本の権威としてはジョン・ハットセルによる著作(1781年初版、1818年第4版)が存在する[138]。『アースキン・メイ』では1818年以降の庶民院における事例を取り上げたほか、ハットセルの著作では取り扱われなかった貴族院における事例も採用したという[139]。また、ハットセルの著作が先例に基づくアプローチで[140]、あくまでも先例集(collection of precedents)という形をとっているのに対し[141]、メイは年代順ではなくトピック毎に原則、根拠、先例という順で並べ、議会規則を読みやすくした[140]。さらに、独立した問題への回答ではなく、議事規則の根底にある原則とロジックを明示することで、読者に議事規則について再考し、それを合理化できる機会を与えることになる[142]。
各国への翻訳・波及
『アースキン・メイ』は1850年代にはすでにイギリス国外でも評価されており[35]、スウェーデンとオスマン帝国の議会がメイに接触したほか、『タイムズ』紙は『議会の法、特権、手続と慣習』が本国よりもオーストラリアで有名であると報じた[38]。
メイの死から8年後の1894年時点で、日本語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語訳が出版された[2]。日本では1879年(明治12年)に小池靖一による日本語訳『英國議院典例』が律書房より出版されている[1](翻訳元は1873年に出版された第7版[143])。明治期の日本ではメイの名前を「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)と表記していた[1]。
ニュージーランド議会との交流
ニュージーランド議会は1854年に設立された[144]。同年に急遽制定された議事規則ではイギリス庶民院の慣習に従うという原則が定められ、冒頭に「特記がない場合は『議会の法、手続と慣習』が参考になる」と明記されたほどだった[144]。同年にはイギリス庶民院も議事規則を出版しているが、その内容は似ておらず、同年に出版されたのは偶然だった[145]。しかし1865年にニュージーランド議会の議事規則が改訂されたとき、メイの著作をほぼコピーしたものになってしまった[145]。また議会がメイ本人に手紙を介して助言を求めることも頻繁であり、1862年から1864年までニュージーランド両院[注 25]の金銭法案(租税、歳出を扱う法案)をめぐる論争ではメイの返答がそのまま結論となった[146]。これは下院で可決された金銭法案を上院が修正する権限があるか、という論争であり、メイは「地球の反対側での論争に参加したくない」としつつ、「(イギリスの)庶民院から送付された法案に対し、貴族院が修正すると、庶民院はその特権と両院の関係に基づき修正を拒否するだろう」との返答を示した[146]。このように、メイは片方に寄った意見をせず、イギリスでの慣習を述べる形に留まることで、論争に巻き込まれることを避けつつ、慣習という事実が影響力を発揮できるようにした[146]。
ニュージーランド議会の規則は19世紀中には大きな改革が行われず、フランスのアンドレ・シーグフリード(André Siegfried)は1904年の『ニュージーランドの民主制』(La Démocratie en Nouvelle-Zélande)で「議会開会はウェストミンスターのそれを模倣した、旧態依然の儀式のなかで行われた。伝統の本拠地であるイングランドでなら通用したかもしれないが、植民地においてははっきりいってばかげている」などと酷評した[144]。
日本:陸奥宗光との対談(1884年)
メイの死後に日本の外務大臣を務め、「陸奥外交」の一環でイギリスとも所縁のある陸奥宗光は、ヨーロッパ留学中(1884年 - 1885年)にメイ本人に教えを請うた記録が残っている[41]。その議題は以下のとおり、小選挙区制、議会の二院制、政党政治、責任内閣制など多岐に渡った。
このとき、イギリスでは第3次選挙法改正の最中であり、選挙法改正を行う第2次グラッドストン内閣をメイは実務面から支えていた[147]。そうした中、陸奥は日本が採用すべき選挙制度をメイに尋ね、メイは「小選挙区制は間違いなく最も単純」を理由として小選挙区制を勧め、陸奥が小選挙区制において多くの死票が発生するという問題を指摘すると、メイは多数の得票を得た政党が敗北するという状況が「起こる可能性はあまりないと思う」、「選挙において完全なる公正と平等は不可能である」と小選挙区制への支持を維持した[147]。1885年に陸奥がドイツの社会学者、法学者ローレンツ・フォン・シュタインに同様の質問をしたとき、シュタインはメイとは対照的な形で「拘束名簿式比例代表制(原文はScrutin de Liste)は選挙の原理として唯一正しい考えかたである」と回答し、死票の問題と「選挙区の区割りは作られたものなので、特定の地方の多数派は国家全体の本当の多数派を支配することになるかもしれない」という問題を指摘して、比例代表制で下院多数派を占める政党が現れないようにして、下院の暴走を抑えられるようにすべきとした[148]。陸奥の講義ノートを研究した高世信晃は2人の回答について考察し、メイが「イギリス政治の実地経験から具体的かつ実践的な」回答をし、シュタインが「行政府に権力を集中させ政府の安定に最大限の注意を払っていた」としている[149]。
メイは日本が上院を設立すべきかについての質問へは「立憲政府を導入するためには必要不可欠」として設立すべきと考えを示し[150]、また「少数派は政治的要求を勝ち取るために政党を組織し、議会へ代表を送り込むだろう」と陸奥に述べ、はからずも労働者による労働党設立を予想した[147]。最終的に陸奥が研究をまとめて提出した『憲法論』では小選挙区制を支持したが、その理由はメイが述べたものと全く同じである[151]。
また陸奥が「イギリスが責任内閣制の恩恵を享受しているのは、徐々にほとんど無意識のうちに形成されたことと慣習とが、一体になることによる」と指摘すると、メイもそれに同調して「イギリスがそうだったように、日本も議会制政治を確立するには200年かかるであろう」と答えた[152]。
『アースキン・メイ』の改訂と現代政治
21世紀の庶民院委員会秘書官ポール・エヴァンス(Paul Evans)らによると、メイの存命中に出版された第9版までは議員の注目するところである議員の権力と特権(powers and privileges)に関する内容が大半だったが、以降は「万人向けのガイドブックから法学の教科書」に移り、特に第14版(1946年)が顕著だったという[153]。
「アースキン・メイ」(Erskine May)の通称は現代でも使用されており[5]、イギリス議会のウェブサイトでも「議事運営手続きの聖書」(the Bible of parliamentary procedure)との呼称で言及している[4]。庶民院議長は裁定においてアースキン・メイを引用することが多く、庶民院での議論でも引用される[4]。
またメイの日記を20世紀後半に編纂したマッケイ[49]によると、イギリスにおける影響としては議事規則が不文律である慣習から法典化された規則に変わる傾向をはじめたことが挙げられる[154]。一方、21世紀の庶民院日誌書記官マーク・ハットン(Mark Hutton)もイギリスの憲法が非成典憲法であるとし、『アースキン・メイ』がイギリスの憲法の一部であるとしたが、『アースキン・メイ』は「手続きの聖書」(procedural bible)とは言えないとした[155]。また、ハットンは「議会は多くのルールがあるものの、ルール志向(rules-based)の組織ではなく、慣習と先例に基づき運営されている。議事規則(standing orders)、決議、成文法(statute)で記述されているルールは慣習への注釈あるいは改正にすぎない」とも述べている[155]。
また、議会内部だけでなく一般メディアにも「アースキン・メイ」の表現が用いられることがある。例えば欧州連合離脱(Brexit)でイギリス議会が紛糾していた2018年、日刊紙タイムズのコラムニストであるフィリップ・コリンズ(Philip Collins)は「テリーザ・メイ首相より『アースキン・メイ』の方が役に立つ時期に差し掛かっている」と同姓のMayつながりで当時の政局を皮肉っている。統制の取れなくなった議会を正常化させるには、議事規則に則るべきとの主張である[156]。この批判は他メディアにも引用された[157][158]。
- ^ 明治期の日本では「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)という表記がある[1]。
- ^ 1832年の第1次選挙改革では、有権者の資格(選挙権)が「10ポンド戸主」(年価値10ポンド以上の家屋・店舗などを占有する戸主)と定められ、有権者数が1.5倍に増えている[17]。しかしながら庶民院への立候補資格(被選挙権)は第1次選挙改革から6年後の1838年に実現されている[18]。また、イギリスは貴族院(上院)と庶民院(下院)の二院制を敷いているが、選挙で議員を選ぶのは庶民院のみが対象となっている。したがって1832年の第1次選挙改革によって、貴族院に対する庶民院の優位性が「制度的に」直接規定されたわけではなかった。あくまで「社会的に」(実質的に)庶民院の影響力が増した転換点として1832年の選挙改革は捉えられている[19]。
- ^ 一般的な国の憲法とは異なり、イギリスの場合はいわゆる「憲法」に該当する法律文書が一つに体系化・法典化されているわけではない。そのため「不文憲法」(unwritten)あるいは「不成典憲法」(uncodified)と呼ばれる[24]。どの法律文書をイギリス憲法の構成要素と見做すか見解は異なるものの、『アースキン・メイ』をこれに含める立場が複数存在する[25][26]。また憲法とまで断言せずとも、「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威のある書」などと位置付けられている[4][6]。
- ^ 『アースキン・メイ』初版 第22章および第23章を参照のこと[27]。
- ^ 『アースキン・メイ』初版 第19章および第24 - 29章を参照のこと[27]。
- ^ 『アースキン・メイ』初版 第19章および第16 - 17章を参照のこと[27]。
- ^ 庶民院書記官の職責は記録上、少なくとも1363年まで遡る。当時は絶対君主が庶民院書記官を直接任命する重要な職であり、庶民院議員や内閣には罷免権がない独立した立場であった。その後手続面のアドバイザーから徐々に職責が広がり、議会運営実務における執行責任者の役割も現代では含まれている[37]。
- ^ 中村が挙げたのは、『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を記したメイ、メイに影響を与えたとする先人のヘンリー・ハラム(1777年 - 1859年)、およびメイと同世代のウィリアム・スタッブズ(1825年 - 1901年)の3名である[7]。
- ^ ケンティッシュ・タウンは庶民院および貴族院の議事堂があるウェストミンスター宮殿から北に6kmほどに位置する地域。
- ^ グラマースクールの「グラマー」は文法の意味。その前身は12世紀にまで遡り、下級聖職者にラテン語の文法を教える教育機関であった。19世紀中頃時点では、他の教育機関がラテン語などの古語を教える割合が8%未満だったのに対し、グラマースクールの7割強は古語教育を継続していた[52]。
- ^ イギリスでは自宅から通学する「ローカル」スクールの対義語として、全土から学生を募る寄宿制の「パブリック」スクールが存在する。安価な授業料の公立校の意味ではなく、寄宿費を捻出できる富裕な家庭に開かれている私立校である。パブリックスクールはグラマースクールを前身とし、18世紀ごろから展開し始めた[54]。
- ^ 公立の初等教育学校を設置する法案が可決されたのが1870年であり、ほぼ全ての児童が初等教育を受けられるようになったのは1880年代に入ってからである[56]。イギリス教育改革の年表 も参照のこと。
- ^ 当時のイングランドにおける大学教育は、貴族制に基づきオックスフォード大学とケンブリッジ大学が独占しており[15]、1810年代から1840年代を平均すると、オックスブリッジに進学できたのは男女の全学童のうち0.3%に止まった[57]。この独占状態に風穴を開けたのが、ブルジョワ自由主義的な立場のロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)であり、1826年設立(メイが中等教育を受けている頃)のことである[15]。なお、レーヴェンシュタイン訳書では旧ロンドン大学の設立年を1827年としているが[15]、大学側は設立年を1826年と公式表記している[58]。
- ^ チャールズ1世の治世とそれに続く清教徒革命(17世紀中期)で一時的に低調になったものの、18世紀末には再び盛んに行われていた[65]。文人マーティン・バーニー(Martin Burney)が1801年から1820年までの日誌索引を作成した後は索引作成の業務が外部委託ではなく庶民院図書館に担当されるようになっている[66]。
- ^ 議員は議案について質問することができ、(1832年時点の)最短手順をとったとしても第一読会で4問、第二読会で5問、法案委員会で9問、第三読会で6問が必要だった[67]。修正案が提出された場合は必要な質問数がさらに増えた[67]。
- ^ 大法官裁判所の役職の一種。メイが弁護士費用査定官に就任する2年前の情報によると、イングランドでは20年以上の法務経験を当職の就任資格要件として法律上規定していた[79]。なお、イギリスでは司法(裁判所の機能)と立法・行政が明確には分離しておらず、大法官は内閣の一員である[50]。現代においては、taxing masterは高等裁判所の一部門である高等法院に所属し、判決を受けて訴訟当事者の一方から他方へ支払われる裁判費用を審査する役割を担っている[80]。
- ^ a b 一部の文献では、私法律案請願審査員は1846年の1年のみで、翌1847年から1856年まで弁護士費用査定官を専任したとの記録も存在する[31]。
- ^ 1845年に庶民院が日誌索引を調査したところ、(メイが索引付けを担当した期間を含む)1714年から1837年までの索引は大きな問題がなかったものの、1547年から1714年までの日誌索引は再作成する必要があると判断した。これによりヴァードンとメイの共作で1547年から1714年までの日誌索引が再作成され、1852年に出版された[70]。
- ^ ただし、ヴァードンは1865年分まで索引を作成し、1867年に死去すると索引作成の業務は日誌局秘書官が引き継いだ[68]。ヴァードンの死後、庶民院図書館が索引作成を担当しなくなったため、先例を提供するという役割を失い、ただの議員休憩所と化した[91]。図書館の管理はそのまま停滞し、1930年までに議員から問題提起されたものの、実際に改善が行われたのは第二次世界大戦後のこととなる[92]。
- ^ 庶民院議員経験者が庶民院書記官に任命されたのは1659年という議会が低調の時期に任命されたトマス・セント・ニコラス(Thomas St Nicholas)以来のことだった[97]。また、18世紀のジェレマイア・ダイソンのように庶民院書記官から議員に転身する例もある[98]。
- ^ 当時の法律が複雑すぎることを憂慮し、法律の系統的な概略の作成を目指して創設された委員会であり、委員には同時期の著名な法律家である初代クランワース男爵ロバート・ロルフ、初代ウェストベリー男爵リチャード・ベセル、ヒュー・ケアンズ、ウィリアム・ウッド、ラウンデル・パーマーが名を連ねた[102]。
- ^ 法曹院の法令読会(reading)において、法令の解釈を披露し、それに対する批判に反論する役割を持つ人物[109]。
- ^ a b 本書の日本語定訳はないことから、渡辺・小山・浜田共訳[118]に従った。当訳書の原著は憲法論などで知られる哲学者・政治学者カール・レーヴェンシュタインであり、革命後の共和制フランスや君主制ドイツなどとの対比の文脈で、レーヴェンシュタインはメイの著作『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を参照文献として挙げている[119]。
- ^ イギリスにおける近代的な議院内閣制の発展研究の観点からは、ジョージ3世の即位(1760年)ではなく、曾祖父のジョージ1世の即位(1714年)をターニングポイントとするのが通説となっている。ジョージ1世はハノーヴァー家出身のドイツ人であり、英語を解すことができなかったことから、首相との会話にはラテン語を用いていたとされる。かつ即位は50歳を超えてからである。したがって「王は君臨すれど統治せず」の政治姿勢は意図したものではなく、必然的に責任内閣制が必要とされた背景がある[121]。その後、ジョージ3世は1760年の即位後に王権回復に努めて民主化・立憲主義の後退が一時的に起こるものの、大ピットによる長期政権運営によって責任内閣制と首相の地位が確立している[122]。
- ^ ニュージーランド議会は1950年まで両院制だった[146]。
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