アーキバス
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歴史
起源
もっとも初期の形態のアーキバスはヨーロッパで1411年に現れ、オスマン帝国では1425年に登場した。これらはハンドカノンに蛇型マッチロックを取り付けたものだったとされる[35]。ただし初期のアーキバスと呼ばれるものには必ずしもマッチロック機構が備わっていたわけではない。マッチロック機構が取り付けられるようになった実際の時期については議論がもたれている。記録に残る最初のアーキバス部隊 (tüfek)は、オスマン帝国軍のイェニチェリの中で1394年から1465年まで運用された部隊だった[36]。ただ、実際には彼らはいわゆるアーキバスではなく小型の大砲を用いていた可能性もある[37]。ヨーロッパでは、おそらくクロスボウの影響で[3] 1470年ごろに銃床が導入され、1475年までにはマッチロック機構も整った。マッチロック式アーキバスは、トリガーを用いた最初の火器であり[33][38]、また最初の担いで持ち運び可能な火器であったともいえる[39]。
ヨーロッパ
1472年にサモラでスペイン人やポルトガル人がアーキバスを使用したのが、戦場におけるもっとも早い時期の使用例だとされている。また1476年にカスティーリャ軍がアーキバスを使用したという記録もある[40]。続いて1476年より少し後の時期から、イングランドの王室親衛隊の一部がアーキバスを装備するようになった。フランスでは受容が遅れ、1520年にようやく配備が始まった[41]。この間にも、アーキバスの改良は進んだ。1496年には、プファルツのフィリップ・モンフが、大砲や"harquebuses"に関する絵入りの書籍Buch der Strynt un(d) Buchsse(n) を出版した[42]。
ヨーロッパでまとまった数のアーキバス兵を初めて戦争に投入したのが、ハンガリー王マーチャーシュ1世 (在位: 1458年 – 1490年)である[43]。彼が組織した黒軍の4人に1人がアーキバス兵とされ、全軍で見ても5人に1人がアーキバスを持っていた[44]。ただマーチャーシュ1世自身は、兵に装填速度の遅いアーキバスよりも盾を持たせることを好んだ。また黒軍のアーキバス重視という特徴は当時のヨーロッパ諸国では流行らず、16世紀半ばに至るまで、西ヨーロッパの軍における火器の所持者はわずか1割程度だった[45][46]。
アーキバスの有用性は、1503年のチェリニョーラの戦いで証明された。これは、火器が戦闘の行方を決した最初の戦いであった[47]。
ロシアでは、1500年代初期にピシチャル (ロシア語: пищаль)という小さなアーキバスが登場した。これを用いるピシチャリニキと呼ばれるアーキバス兵は、モスクワ大公国では欠かせない存在となり、1510年のプスコフ併合や1512年のスモレンスク征服には1000人のピシチャリニキが参加している。サファヴィー朝が1473年にチャルディラーンで敗れたのと同様、モスクワ大公国も1501年のセリツァ川の戦いで火器不足による敗北を喫していた[48][49]。この戦いの後、モスクワ大公国はピシチャリニキを中心に、火器の導入を急いだ[49]。1545の時点で2000人のピシチャリニキ(うち1000人は騎乗)が諸都市から招集され、国費によって維持されていた。アーキバス兵を馬に乗せるという発想も、当時としては独特だった。次第にピシチャリニキは、兵士というよりも熟練農民の世襲的な地位ととらえられるようになった[50]。
16世紀前半のイタリア戦争では、アーキバスが大々的に用いられた。フレデリック・ルイス・テイラーによれば、早ければ1522年のビコッカの戦いの時点で傭兵隊長プロスペロ・コロンナが、アーキバス兵が膝を立てて一斉射撃する戦術を導入したという[51]。しかしトニオ・アンドラーデは、この説を参考文献を拡大解釈もしくは曲解したものであるとして疑義を呈している。というのも、テイラーはイギリスの軍事史家チャールズ・オマーンが、スペイン兵が膝をついて装填した、と主張していたとして自説を述べたのだが、実際にはオマーンはそのような主張はしていなかったのである[52]。
アジア
オスマン帝国は15世紀前半にはすでにアーキバスを使い始めていた[53] 。1440年代、ムラト2世はボスポラス海峡を渡る際に数百人のアーキバス兵を伴っており、1448年の第二次コソボの戦いでもアーキバス兵を投入している[53]。またボヘミアのフス派が使用したウォーワゴン戦術を導入した。これは装甲を強化した荷車を戦場で多数並べて即席の防塞とし、アーキバス兵を守るというものだった[53]。1473年の白羊朝に対するバシュケントの戦いでは、オスマン軍のアーキバス兵は砲兵と連携して効果的に運用された[53]。
一方でマムルーク朝は戦場での火器の使用に消極的であった[54]。オスマン軍の大砲やアーキバスを前にしたマムルーク朝は、これらを「神はそれらを発明した者を、またそれらをムスリムに向けて放った者を呪われる」[55]「戦場でムスリムの軍に立ち向かえないヨーロッパのキリスト教徒による狡猾な発明」などといって非難している[55]。マムルーク期の文献において、アーキバスは al-bunduq al-raṣāṣ (直訳すると「鉛の小球」)と呼ばれている[54]。この語から派生した bunduqiyya が、その後、アラビア語で小火器全般を指す言葉になった[54]。また、当時のアーキバスのヨーロッパからエジプトへの輸出には、アラビア語では al-Bunduqiyya と呼ばれるヴェネチアが深くかかわった[54]。マムルーク騎士たちはアーキバスを、大砲よりも嫌悪し、忌避した[54]。
1489年になって、アシュラフ・カートバーイがマムルークにアーキバスを装備させ始めた。しかし1516年のマルジュ・ダービクの戦いで、マムルーク軍は12,000人のオスマン軍アーキバス兵の射撃を受け壊滅した[55]。16世紀中には、アーキバスは一般的な歩兵用武器として受容されていった。しかし、ミゲル・セルバンテス (1547–1616 AD)の時代になっても、まだマスケット兵は封建騎士から軽蔑されていた[56]。一人のパイク兵にパイクとヘルメットと胸甲を与えるのに3ドゥカートから4ドゥカートを要するのに比べ、アーキバスは一丁1ドゥカート程度で調達でき、この安さも普及を後押しした[7][57]。また訓練に要する時間の短さもアーキバス兵の強みだった。弓は習熟に何年もかかるのに対し、アーキバスは2週間もあれば十分戦えるようになった[58]。1571年のヴィンチェンティオ・ダレッサンドリ(Vincentio d'Alessandri)の報告によれば、その時点でアーキバス兵を含むサファヴィー軍は「他のあらゆる国のそれよりも優れ、鍛えられて」いた。これは16世紀半ばまでにはアーキバスのような火器が普通に使われるようになっていたことを示している[16]。
アーキバスはさらに東方にも伝わり、1500年にインド、1540年に東南アジアに到達した。中国には1523年から1548年の間に到来している[59][28]。
イラン
サファヴィー朝のイスマーイール1世は、1514年にチャルディラーンの戦いでオスマン軍の火力の前に敗れた後、アーキバスの導入に力を入れた。敗北からわずか10年の間に、1万2000人ものアーキバス兵が組織されたと推定されている[60]。彼らの戦闘力は高かったが、伝統的に軽騎兵が重視されるイランでは、アーキバスは一般にあまり信頼されなかった。馬上でアーキバスを使用するのは極めて難しく、ほとんど運用されなかったため、火器の技術革新はなかなか進まなかった。それでもサファヴィー朝のシャーたちは火器の製造に取り組み続け、これをオスマン帝国を間に挟んだヨーロッパ諸国も支援した。またイランでは、高い視点による優れた視野と比較的高い機動性を兼ね備えた銃象兵も登場した[61]。
東南アジア
東南アジアでは1540年までにアーキバスの導入が始まった[28]。大越は明の影響で優れたマッチロック式アーキバスを製造し、その技術は17世紀にはオスマン帝国や日本、ヨーロッパ諸国をしのぐものにまで高められた。鄭阮紛争を目撃したヨーロッパ人たちは、ベトナム人銃手の熟練ぶりを書き伝えている。ベトナムのマッチロック式アーキバスは、数枚の鉄板を貫通し、一発で2人から5人を殺傷できるうえ、口径のわりに発砲音が静かであったという[62]。
中国
明には16世紀にアーキバスが伝わり、1548年までには少数ながら倭寇討伐に投入されていた。アーキバスが導入された正確な時期は分かっていない。1558年に明に逮捕された倭寇の頭目王直は、アーキバスを所有していた。またヨーロッパ人を捕らえた倭寇が明当局に捕らえられるといったルートでも、明はアーキバスを獲得していた。1558年の時点ですでに明国内で1万丁の銃の生産が発注されており、これは倭寇討伐に用いられた[63]。
威継光はアーキバスを効果的に運用できる戦術を研究し、兵種を混合させた12人を一部隊とする用兵を考案した。各部隊の中に占めるアーキバス兵の人数は場合によって異なり、時には12人すべてが銃手で占められる部隊も作られた。各隊のアーキバス兵はラッパの合図に合わせて反転行進射撃や一斉射撃を行い、また近くの部隊の兵と連携した[64]。威継光は、自分を傷つけることなく、戦場でも高い射撃速度を維持するために、装填訓練の重要性を強調している。彼は1560年の時点で、銃の有効性を次のように評価している。
(鳥銃は)他のあらゆる種類の武器と異なっている。強さにおいては鎧を貫くことができる。正確さにおいては的の中心を撃ち抜き、銭の穴を撃つことすらでき、しかもそれは優れた射手に限らない。(中略)鳥銃はそのような強力かつ正確な武器で、弓矢でもかなわない。(中略)それと同等に強く、立ち向かえる武器は無い。[65][要検証 ] — 紀効新書
日本
1543年、ポルトガル人が九州南部の島津氏の影響下にある種子島に漂着したことで、日本に鉄砲が伝来した[28]。1550年までに、種子島、鉄砲、火縄銃などと呼ばれるようになったアーキバスは、戦国時代の日本で大量生産され使用されるようになった。この日本の火縄銃は、ポルトガルが1510年のゴア占領時に持ち込んだスナップ・マッチロック式アーキバスを基にしているものと思われる[66]。わずか10年のうちに、日本では3万丁もの火縄銃が生産されたとされる[67]。次第に火縄銃は特に重要な兵器の地位を獲得していき、特に織田信長は、1575年の長篠の戦いにおいて3人一組で装填役と発射役を分担し、連続した一斉射撃を実現するという大革新を成し遂げたとされる。しかし近年では、太田牛一の『信長公記』を出所とするこの話には疑義が呈されている。『信長公記』を翻訳したJ・P・ラーマースは、著書Japoniusにおいて「信長が三列輪転戦術を実施したのかどうかという問題については、信頼できる情報源が無い。」と述べている[68]。彼ら懐疑派によれば、一斉射撃に言及した文献はいずれも戦後数年を経てから書かれており、実際に長篠の戦い当時に書かれた文献では、大勢による各個射撃として描かれているのだという[69]。とはいえ1592年から1598年の豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際には、朝鮮や明の側で日本軍の一斉射撃戦術が記録されている[70]。豊臣秀吉は天下統一への戦争や朝鮮・明との戦争で広く「種子島」を使用した。
ヨーロッパでの運用法
ヨーロッパにおいてアーキバスを集中的かつ効果的に用いる戦術を開拓したのは、ネーデルラントの指導者オラニエ公マウリッツである。彼はまず1599年に軍制改革を行い新式の統一された軍隊を編成した。1600年のニーウポールトの戦いで、彼はスペイン軍から海岸沿い砦を奪い返すために浜辺を行進した際、先述のウィレム・ローデウェイクが考案した反転行進射撃を初めて実践した。ネーデルラント軍のアーキバス兵はいくつかに分かれ、それぞれの隊列を規律正しく維持しながら、スペイン軍に次々と一斉射撃を浴びせた。この戦いはネーデルラント軍の劇的な勝利に終わり、スペイン軍が4000人の犠牲者を出したのに対し、ネーデルラント側の損害は死者1000人、負傷者700人に過ぎなかった。ただし、アーキバス部隊はスペイン軍の熟練兵が組むテルシオの進軍を止めることができず、実際にネーデルラント軍に大勝をもたらしたのは反攻を成功させた騎兵隊だった。とはいえこの戦いは、後に銃が主役になっていくヨーロッパの近世軍事史における一大転換点だったと考えられている[71]。
1550年代ごろから、長銃身の小火器全般を指していた「アーキバス」という名称は「マスケット」に取って代わられていった。これ以降、アーキバスと言えばマッチロック式を限定して指す言葉となった[72]。
他の武器との連携
アーキバスは他の武器と比べて多くの長所を持っていたが、同時に深刻な弱点も少なくなく、これを補うために他の武器と連携して運用する方法が模索された。威継光は敵がアーキバス兵に肉薄してくる場合に備えて、アーキバス隊のすぐ後ろに伝統的な武器を用いる兵を配置した[73]。この戦術は、アーキバス隊をパイク隊が援護したイングランドの戦術と類似している[64]。どちらも新兵器アーキバスと伝統的な武器の最適な連携を考えた結果、まったく別の地域でありながら似た結論に至ったことになる[64][73]。ヴェネツィアでも、アーキバスの長い装填時間を埋めるために、弓兵による援護射撃を組み合わせた連携戦術が採用されている[64]。オスマン帝国は大砲で援護射撃をしたり、フス派にならってウォーワゴンを用いアーキバス兵を守ったりした[74]。
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