アレクサンダー・ウニンスキー アレクサンダー・ウニンスキーの概要

アレクサンダー・ウニンスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 17:00 UTC 版)

アレクサンダー・ウニンスキー
基本情報
生誕 (1910-02-02) 1910年2月2日
ロシア帝国キーウ
出身地 ソビエト連邦 アメリカ合衆国
死没 (1972-12-19) 1972年12月19日(62歳没)
アメリカ合衆国ダラス
学歴 キエフ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

経歴

ウクライナのキーウ出身[1]。最初にキエフ音楽院(1913年開校)においてピアノを学び[2]、その後1923年パリに移ってラザール・レヴィに入門する。パリ音楽院ピアノ科で首席となり、1932年にはショパン国際ピアノコンクールにおいて優勝する。実際にはハンガリー盲目のピアニスト、イムレ・ウンガルと同点だったのだが、審査員がコイン投げで決着をつけた結果ウニンスキーが勝者になったという。

1955年にトロント音楽院の教員となり、作曲家ブルース・マザーらを輩出した。マザーは1974年に恩師を偲んで、追悼音楽を作曲している[3]。その後は南部メソジスト大学(ダラス)で教鞭を執り、ジェフリー・スワンやデイヴィッド・モーガン、カーメン・アルヴァレス、ヘンリー・ドスキー、ドゥブラフカ・トムシッチ・スレボトニャクらを輩出した。

1950年代初頭に、新設されたばかりのレコード会社フィリップスとさっそく契約する。代表的な音盤は一連のショパンの録音であり、1950年代に録音された練習曲全集や、1959年から1971年にかけて録音されたマズルカならびに即興曲のほか、さらにはスケルツォワルツに加えて、ピアノ協奏曲まで網羅されている。また、リスト作品の録音も残した。

ウニンスキーの演奏様式は、ニキタ・マガロフのものにたいへん似通っている。情緒に溺れず上品だが、ルバートの使用は演奏者が本質的に20世紀初頭の美学を奉じた人間であったことを物語っている。明晰で質素な演奏は、様式化されたヴィルトゥオーソのショパン演奏の伝統に抗うものであったにもかかわらず、第2回ショパン国際コンクールの審査員がそれを承知で感銘を受けたことは驚くにあたらない[4]。ウニンスキーの演奏の「モダンさ」の表れは、「ブライロフスキーやウニンスキーがサル・プレイエルを満員にすることができるからといって、ザウアーが輝かしい過去にもかかわらず、ちっぽけなサル・エラールで演奏しなければならないなどとどうして考えることができようか?[5]」と、『リベルタテア』紙の批評欄に寄せたディヌ・リパッティの発言(1937年)にまで遡ることができる。

外部リンク


  1. ^ 吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、59ページ、ISBN 4-7872-7208-X
  2. ^ Grigory Kogan
  3. ^ Bruce Mather In memoriam Alexander Uninsky
  4. ^ http://www.chopin.org/uploads/File/articles/JasinskiAndrzej.pdf
  5. ^ Marston - Emil von Sauer


「アレクサンダー・ウニンスキー」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アレクサンダー・ウニンスキー」の関連用語

アレクサンダー・ウニンスキーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アレクサンダー・ウニンスキーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアレクサンダー・ウニンスキー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS