アリー・モレナー・レーシング アリー・モレナー・レーシングの概要

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アリー・モレナー・レーシング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/23 00:56 UTC 版)

アリー・モレナー・レーシング
2010年
チーム名
スティパ・モレナー・レーシングGP
本拠地 オランダ
代表 オーナー : アリー・モレナー
チームマネージャー : Martin van Genderen
チーフメカニック : ハンス・スパーン
ライダー 39 ルイス・サロム
53 ジャスパー・イウェマ
マシン アプリリア・RSA125
タイヤ ダンロップ
ライダーズ
チャンピオン
2回
1995年,1996年 125cc 青木治親

チームの概要

オランダ出身のアリー・モレナー ( Arie Molenaar, 1965年 - ) がオーナー。彼は、父親のアリー・モレナー(同姓同名)が創業したバイクショップ「アリー・モレナー・モータース」の経営に携わりながら、1994年より自らのチームをロードレース世界選手権に参戦させた。日本では青木三兄弟のうち宣篤治親、そして沼田憲保が所属していたチームとしてその名を知られる。

チームの歴史

アリー・モレナー・レーシングは1994年よりロードレース世界選手権125ccクラスに参戦を開始した。初年度はオランダのベテランライダー、ハンス・スパーンをライダーに迎えた。この年が現役最後のシーズンとなったスパーンは、翌年からはチーフメカニックとしてチームに参加することになった[1]

1995年には125ccクラスにGP2年目の青木治親が移籍。治親はシーズン7勝を挙げ、自身・チーム初となるワールドチャンピオンに輝いた。初参戦となった250ccクラスでは治親の2つ上の兄の青木宣篤をライダーに迎え、宣篤はシリーズランキング6位となった。翌1996年も青木兄弟の2クラス参戦の体制が続き、治親は見事タイトル2連覇を果たし、宣篤はシリーズ7位となった。

1997年からはマシンをそれまでのホンダから、ワークス参戦を開始したスズキのRGV‐Γ250に変更した。同マシンの開発を手がけてきた沼田憲保をエースライダーに2シーズンを戦ったが、マシンの性能が芳しくなく、満足な成績は残せなかった。また1997年のオーストラリアGPでは、のちにスーパーバイク世界選手権チャンピオンとなるトロイ・ベイリスワイルドカード枠でチームからGPデビューを果たし、非力なマシンながら6位に入賞する活躍を見せた。

2000年にはユルゲン・ファン・デン・グールベルクをライダーに迎え、チームは最高峰500ccクラスに初参戦を果たした。ホンダ・NSR500Vをベースにテクニカル・スポーツ製のフレームを搭載したマシンでシリーズランキング13位に入り、ベストプライベーター賞を獲得した。2001年はグールベルクに代わって青木治親がチームに復帰し、NSR500Vを駆ってシリーズ17位に入り、2年連続となるベストプライベーター賞をチームにもたらした。

2002年はチームは最高峰クラスから撤退し、治親は250ccクラスでRS250RWの開発を兼ねてシーズンを戦い、シリーズランキングでは14位となった。

2003年は女性ライダーのカーチャ・ペンスゲンを迎え250ccクラスを戦ったが、ノーポイントに終わった。2004年2005年は250ccクラスにチェコのヤコブ・シュムルツ、125ccクラスに地元オランダのレイモンド・スカウテンの体制で戦ったが、両クラスとも成績は低迷した。

2007年からチームは125ccクラスに集中することになった。人材派遣会社のデグラーフがメインスポンサーに就き、エントリー名は「デグラーフ・グランプリ」となった。2008年にはケニー・ロバーツの支援を受けたアメリカ人ライダーのスティービー・ボンセーがシリーズ15位の成績を残した。

2009年はチーム在籍3年目となるイギリスダニー・ウェブと、KTMから移籍してきたスイスランディ・クルメナッハファクトリースペックのアプリリア・RSA125を駆ってシーズンを戦った。

2010年シーズンはスイスの建設会社であるスティパがメインスポンサーに就き[2]、チーム名は「スティパ・モレナー・レーシングGP」となった。チーム2年目のクルメナッハのチームメイトは当初クエンティン・ジャケが務めたが、3戦目からはルイス・サロムに交代となった。クルメナッハは全17戦中15戦でポイントを獲得して年間ランキング9位を記録、サロムもランキング12位に入る活躍を見せた。

2011年はサロムが残留し、チームメイトには新たにオランダのジャスパー・イウェマが加入する予定だったが[3]、このシーズンから地元オランダでのMotoGPの放送が無くなってしまったことからスポンサーに降りられてしまい、資金難に陥ったモレナー・レーシングは活動停止を余儀なくされた[4]。なおサロムは旧チームスタッフの一部により新規結成された「RWレーシングGP」チームから[5]、イウェマはイタリアのフォンタナ・レーシングから継続参戦できることとなった[6]

チームの戦績

シーズン クラス マシン ライダー 出走 ポイント シリーズ順位
1994年 125cc ホンダ・RS125 ハンス・スパーン 14 0 -
1995年 125cc ホンダ・RS125 青木治親 13 224 1位
250cc ホンダ・NSR250 青木宣篤 13 105 6位
1996年 125cc ホンダ・RS125 青木治親 15 220 1位
250cc ホンダ・NSR250 青木宣篤 15 105 7位
1997年 250cc スズキ・RGV‐Γ250 沼田憲保 14 55 12位
ジェイミー・ロビンソン 13 18 22位
トロイ・ベイリス 1 10 27位
1998年 250cc スズキ・RGV‐Γ250 沼田憲保 14 52 16位
ヨハン・シュティグフェルト 13 22 21位
1999年 250cc TSR ヤルノ・ヤンセン 16 2 30位
モーリス・ボルベルク 9 0 -
2000年 250cc TSR ヤルノ・ヤンセン 16 4 33位
500cc TSR ユルゲン・ファン・デン・グールベルク 16 85 13位
2001年 500cc ホンダ・NSR500V 青木治親 14 33 17位
2002年 250cc ホンダ・RS250RW 青木治親 16 58 14位
ホンダ・RS250 ヤルノ・ヤンセン 9 0 -
ヤコブ・シュムルツ 5 1 36位
2003年 250cc ホンダ・RS250 カーチャ・ペンスゲン 10 0 -
ヤコブ・シュムルツ 1 2 14位[7]
ヘンク・ファン・デ・ラグマット 16 0 -
2004年 125cc ホンダ・RS125 レイモンド・スカウテン 15 0 -
250cc ホンダ・RS250 ヤコブ・シュムルツ 16 20 20位
2005年 125cc ホンダ・RS125 レイモンド・スカウテン 10 0 -
250cc ホンダ・RS250 ヤコブ・シュムルツ 16 19 20位
2006年 125cc ホンダ・RS125 ジョーイ・リットジェーン 15 0 -
250cc ホンダ・RS250 アルノー・ヴァンサン 11 14 22位
アレッサンドロ・ブランネッティ 3 0 -
2007年 125cc ホンダ・RS125 ジョーイ・リットジェーン 15 0 -
アプリリア・RSW125 ダニー・ウェブ 17 3 26位
2008年 125cc アプリリア・RS125 ヒューゴ・ファン・デン・ベルク 17 1 35位
アプリリア・RSW125 ダニー・ウェブ 15 35 19位
スティービー・ボンセー 17 46 15位
2009年 125cc アプリリア・RSA125 ダニー・ウェブ 15 38.5 17位
ランディ・クルメナッハ 16 32 21位
2010年 125cc アプリリア・RSA125 ランディ・クルメナッハ 17 113 9位
クエンティン・ジャケ 2 0 -
ルイス・サロム 15 72 12位



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