ろう教育 ろう教育の歴史

ろう教育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/20 03:35 UTC 版)

ろう教育の歴史

近世以前のヨーロッパにおけるろう教育

重度の聴覚障害児は人類の歴史のごく早い時期から存在していたと思われるが、そうした先史時代のろう教育については史料が存在していないため、知ることができない。またこれまで聾史学は主に欧米で発達してきたため、アジアやアフリカ、先史時代のアメリカ、オセアニアにおけるろう教育の歴史については、ほとんど研究が行われていない。

歴史上、最も古いろう教育に関する記録と思われるものは、8世紀初頭のイングランドヨーク主教だったベヴァリーの聖ジョン(Saint John of Beverley)についての記述で、ベヴァリーの聖ジョンは一人の聴覚障害児に言葉を教えたとの伝説が残っている。

次にヨーロッパの記録に登場するのは15世紀の哲学者ルドルフ・アグリコラである。アグリコラはハイデルベルク大学の教員だったが、やはり聴覚障害者に言葉を教えたとされ、『発見の弁証法(De Inventione Dialectica, 1538)』と題された著書において、自らのろう教育について記している。

なお、この時期のヨーロッパでは、ようやくではあるが聴覚障害は知的能力に本質的に関わる器質障害と見なされなくなっており、16世紀イタリアの哲学者ジロラモ・カルダーノは、この考え方を著書『聖書年代記(Paralipomenon)』の中で展開した。またこの頃までに、ヨーロッパに生まれた聴覚障害児の一部は、家庭教師によるろう教育を受けるようになっていた。なお、この時期のヨーロッパのろう教育の具体的な内容は、史料が存在しないためわからない状況である。ただ、現在のスペインや南フランス、イタリアなどの地域の修道院では13世紀頃から各種の指文字が使用されていたことがわかっており、それらを用いてろう教育を行ったのではないかと考えられている。また16世紀のスペイン、レオン地方に住んだベネディクト会の修道士ペドロ・ポンセ・デ・レオン英語版が1570年頃、4人の聴覚障害児(いずれも貴族の子弟)に墨字と指文字でろう教育を行ったことも知られている。

歴史上最古のろう教育に関する指導書は1620年、スペインのフアン・パブロ・ボネットによって書かれたものであるが、その中には16世紀のマドリードに住むフランシスコ会の修道士だったフレイ・メルヒオール・デ・イェブラが考案した指文字についての記述が含まれている。ボネットはフェリペ3世の宮廷に仕えた人物だったが、ペドロ・ポンセ・デ・レオンと同じく墨字と指文字によるろう教育を行った。またこの時期のスペインでは、エマヌエル・ラミレス・デ・カリオンも著名なろう教育家として知られている。スペインが近世ヨーロッパのろう教育の中心地になった理由としては、限られた血族の中で近親婚を繰り返したために、先天性の障害児が生まれやすくなっていたこと、スペインがヨーロッパの中でも最も富み栄えていた国だったことが挙げられる。

読話(俗に言う読唇術)がろう教育に取り入れられたのは17世紀のドイツにおいてである。スペイン領ネーデルラント出身の化学者フランシス・メルキュリウス・ファン・ヘルモントは、著書の中でヘブライ語を用いた読話の有効性を主張し、実際に一人の聴覚障害者にそれを試みて成功したと書き記している。口話をろう教育に取り入れたのは、スイス生まれでオランダで活動した医師、ヨハン・コンラッド・アンマン(1669-1724)である。アンマンは2冊の著書で口話法について詳しく論じ、後世の口話法に多大な影響を与えた。

手話法について最初にまとまった議論を展開したのは、イングランドの医師ジョン・バルワー(1614-84)である。バルワーは読話や書記言語の習得を重視しつつも、手話を用いたろう教育についても著書の中で解説している。

18世紀後半になると、ヨーロッパではスペイン系のろう教育(指文字を利用し、書記言語の獲得を重視する。書記法とも呼ばれる)と、アンマンが創始しイングランドやフランスに広がった口話法(読話と口話を重視する)とが併存するようになっていた。ただ、ろう教育家たちは自分の教育法の細部を公開したがらなかったので、全体で体系的な理論が生み出されることはなかった。

ろう学校の出現

18世紀後半、イングランド、フランス、ドイツで相前後してろう学校が設立され、ろう教育は個人教授の時代から学校教育の時代に入る。

スコットランドのエジンバラ生まれのろう教育家、トマス・ブレイドウッドは1766年、エジンバラ市内に私設のろう学校を設立。1783年にこのろう学校はロンドンに移転した。またフランスの哲学者・神学者シャルル・ミシェル・ド=レペは1760年頃、パリでろう学校を設立した。1778年にはライプツィヒでザムエル・ハイニッケがろう学校を設立した。

ブレイドウッドはジョン・ウォリスによる書記言語と指文字を使った教育法を基礎としていた、ド=レペはボネットによるスペイン系の教育法から出発し、独自の手話を考案してろう教育を行った為、一般的に手話法の元祖であると見なされる。一方、ハイニッケは指文字や手話、ジェスチャーを厳密に排除した口話法を採用していた。なおド=レペとハイニッケは文通によってろう教育についての情報交換を行っていたが、彼らが用いた言語はラテン語である。ハイニッケはド=レペに自らのろう学校を視察に来るようにも勧めたが、これは実現しなかった。

ド=レペの設立したろう学校は、その後オーギュスト・ベビアンらによって手話法を更に進化させていった。ベビアンは手話法に加えて書記言語の必要性を指摘し、一方で口話や読話は重視しなかった。こうしたことから、ベビアンはバイリンガルろう教育の元祖と見なされることもある。

ド=レペの手話法は19世に入るとトーマス・ホプキンス・ギャローデットによってアメリカ合衆国にも普及した。また19世紀ヨーロッパではド=レペの手話法が広く受容され、ハイニッケの口話法は衰退していった。アメリカに最初のろう学校(アメリカンろう学校)が創立されたのは1817年である。

口話法の復活

19世紀はド=レペの流れを汲むフランス式の手話法が優勢だったが、プロイセンの国力が伸張するとともに、ハイニッケの流れを汲む口話法が再注目されるようになった。

1878年、第1回のろう教育者会議が開催され、欧米のろう教育実践家たちが集まって、ろう教育の方法についての討論を行った。1880年にミラノで開催された第2回ろう教育者会議では口話法派と手話法派による激しい議論が行われたが、最終的には口話法が優れているとする決議が圧倒的多数で採択され、口話法の全盛期が始まった。

聴覚口話法

20世紀に入ると補聴器などの科学技術が発達し、ろう教育には新たに聴覚活用の概念が加わった。これを取り入れたのが聴覚口話法で、日本では1970年代に研究と実践が開始された。聴覚口話法は、重度聴覚障害児の一部には非常に有効な教育法であり、21世紀の現在に至るまで研究と改良が続けられている。矢沢国光によると、聴力損失が90デシベル以下であれば、ほぼ確実に音声言語を獲得出来るとされる。また矢沢は、聴力損失110デシベルであっても成功例が無いわけではないとも指摘している[1]

トータル・コミュニケーションの登場

1880年以来、欧米そして日本のろう教育は長い間口話法、聴覚口話法を主に採用していたが、1960年代に入り、口話法一辺倒の手法への疑問が、ろう教育家からも呈されるようになった。そこで1967年に考案されたのが「トータル・コミュニケーション」の概念である。トータル・コミュニケーションはコミュニケーション手段を限定せず、可能な全ての手段を利用してろう教育を行うというものである。

バイリンガルろう教育

しかし、トータル・コミュニケーションによっても聴覚障害児が獲得出来る教科学力は、健聴児と比較すると思わしいものではなかった。そこで次に登場したのがバイリンガルろう教育である。これは手話が自然言語であるという言語学上の発見がきっかけとなったもので、ろう者の第一言語は手話であるとの前提のもとに、手話と書記言語を用いた教科学習を行うものである。バイリンガルろう教育を最も積極的に推進したのはスウェーデンデンマークなどの北欧の国々である。またアメリカでも公民権運動の流れを汲むデフ・パワー運動が盛り上がり、バイリンガルろう教育の必要性を訴える声が高まった(ただしアメリカでは現在でもバイリンガルろう教育は絶対的な主流とはなっていない)。

日本では1990年代にフリースクールという形でバイリンガルろう教育の実践が開始された。主なものとして「龍の子学園」「スマイルフリースクール」などがある。これらは口話教育に不満を持った聾の成人による、手話での教育を行うフリースクールである。その後、バイリンガルろう教育は公立のろう学校にも方法論として取り入れられた(神奈川県立平塚ろう学校など)。またバイリンガルろう教育の中でも特にアメリカの影響を強く受けた「バイリンガル・バイカルチュラルろう教育」を標榜するフリースクール「龍の子学園」は、2008年に私立のろう学校「明晴学園」を設立し、正規の学校教育として幼稚部と小学部において「バイリンガル・バイカルチュラルろう教育」を開始した。

人工内耳の登場と普及

20世紀の終わり頃から、先進国では人工内耳が普及しはじめた。これに伴い、幼児期に人工内耳を装用した聴覚障害児の教育法が議論されるようになった。人工内耳が登場した時期を中心として、多くの国において、ろう者は障害者ではなく言語的少数者であると主張するグループから人工内耳装用は一種の民族浄化(少数民族としてのろう者の抹殺)であるとの激烈な攻撃が行われたが、バイリンガルろう教育を推進していた北欧においても、人工内耳装用児の激増(スウェーデンやデンマークにおいても90%~ほぼ100%と言われる。)を受けて聴覚口話法が見直されるようになっている。

聴覚口話法の再評価

京都府立聾学校のろう者教員である脇中は、自身の博士論文においてBICS(Basic Interpersonal Communicative Skills:基礎的な対人コミュニケーション技術)とCALP(Cognitive/Academic Language Proficiency:認知的/学術的言語についての熟練度)の二つの概念をもとに、聴覚障害教育における手話の使用はBICSの充実には効果的であっても、それだけでは日本語のCALP獲得には不十分であると主張した。そして脇中は、いわゆる「9歳の壁(聴覚障害児のかなりの数が小学校4年生以上の学習内容の獲得に失敗する現象を指す言葉)」を越えるには日本語のCALPが準備されていなければならず、日本手話か対応手話かという議論を越えて、日本語のCALPを聴覚障害児に獲得させる為の最善の教育法を検討すべき時期に来ているとし、聴覚活用やキュードサイン、発声模倣、口形模倣など聴覚口話法の手法も日本語の音韻意識獲得のための手段として活用すべきであると指摘している[2]


  1. ^ a b c 矢沢国光「同化的統合から多様性を認めた共生へ:ろう教育から見た「ろう文化宣言」」現代思想編集部編『ろう文化』青土社、2000年
  2. ^ 脇中起余子『聴覚障害教育これまでとこれから』北大路書房、2009年、128-145ページ
  3. ^ なお、インテグレーション教育そのものは障害児教育という大きなくくりで見た場合、世界的な流れであるが、聴覚障害児教育に限るとコミュニケーション面での障壁から弊害の大きさを指摘する声が強く、実際に世界でも最先端の聴覚障害児教育を実践しているとされるスウェーデンにおいても、聴覚障害児は難聴学校やろう学校で同障者集団とともに学ぶのが普通である。
  4. ^ 「手話で教育」黄信号 広島
  5. ^ 高山弘房『聾教育百年のあゆみ』聴覚障害者教育福祉協会、1988年
  6. ^ a b 都築繁幸『聴覚障害教育コミュニケーション論争史』お茶の水書房
  7. ^ TC研の歴史
  8. ^ 『日本の聴覚障害教育構想プロジェクト最終報告書』日本の聴覚障害教育構想プロジェクト委員会、2005年、73ページ
  9. ^ 参議院会議録情報 第162回国会 文教科学委員会 第3号
  10. ^ 我妻敏博「聾学校における手話の使用状況に関する研究」ろう教育科学45巻4号,2004年
  11. ^ 脇中起余子『聴覚障害教育これまでとこれから』北大路書房、2009年、10ページ
  12. ^ 『ろう学校へのメッセージ』投稿集
  13. ^ 補聴器と人工内耳について
  14. ^ 『日本の聴覚障害教育構想プロジェクト最終報告書』日本の聴覚障害教育構想プロジェクト委員会、2005年、28ページ
  15. ^ 脇中前掲書、292ページ






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