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徳川宗将

(Tokugawa Munemasa から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 23:34 UTC 版)

 
徳川 宗将
時代 江戸時代中期
生誕 享保5年2月30日1720年4月7日[1]
死没 明和2年2月25日1765年4月14日
改名 直松、宗将
戒名 菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士
墓所 慶徳山長保寺
官位 従四位下常陸介従三位右近衛権中将参議権中納言
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
紀伊和歌山藩
氏族 紀伊徳川家
父母 父:徳川宗直、母:永隆院
兄弟 宗将治貞、松平頼央、松平信有、富千代、内藤貞幹
正室:伏見宮貞建親王の養女(今出川公詮の娘)・徳子
継室:一条兼香の娘・重子
直松、重倫、門之進、内藤学文、松平頼興(五男)、松平頼謙松平忠功三浦為脩松平忠和安藤道紀阿部正由、千間姫(前田重教正室)、琴姫池田重寛婚約者)、致姫(松平重富正室)、逸姫、従姫(徳川治行正室)
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徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)は、和歌山藩の第7代藩主。

生涯

享保5年(1720年)2月30日、先代藩主・徳川宗直の長男として江戸青山御殿にて生まれる。幼名は直松宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだが、藩政に対しては消極的であった。仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃したと伝わる。

明和2年(1765年)2月25日、江戸赤坂の和歌山藩邸にて死去した。享年46(満45歳没)。長保寺に埋葬された。家督は次男の重倫が継いだ。

和歌山藩主としての治世は7年6か月であり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は6年であった[2]

官歴

※日付=旧暦 墓所:和歌山県海南市の慶徳山長保寺

系譜

参考文献

脚注

  1. ^ 367日誕生日大事典 126頁
  2. ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)



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