三国時代 (中国)
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三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の勃発(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)あるいは三国が分立した229年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。(後漢末)
注釈
出典
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝「孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言須得涼州、當以荊州相與權忿之、乃遣呂蒙、襲奪長沙、零陵、桂陽三郡」
- ^ 『晋書』「帝紀第八」。
- ^ 『晋書』「帝紀第九」。
- ^ 『晋書』「帝紀第十」。
- ^ a b 『宋書』「本紀第六」。
- ^ 『宋書』「本紀第三」。
- ^ 『宋書』「本紀第九」。
- ^ 『南史』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『南斉書』には記述無し。
- ^ 『三国志』「蜀書四」。
- ^ a b 川勝義雄著『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)
- ^ 《中國古代兵器論叢》,123頁
- ^ 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.86-88
- ^ 『晋書』「地理志」に「1067万7960戸 5648万6856人」とある。
- ^ 『晋書』「地理志」に呉の赤烏5年(242年)のときに53万2千戸 240万人、『通典』「食貨七」に魏の景元4年(263年)のときに66万3423戸 443万2881人、同書に蜀の炎興元年(263年)のときに28万戸 94万人とある。ただし『晋書』「地理志」や『通典』「食貨七」によると、晋の太康元年(280年)には245万8969戸 1616万3863人にまで戸籍上の人口が回復している。
- ^ 藤家礼之輔『漢三国両晋南朝の田制と税制』(東海大学出版会)pp.148-152。なお、藤家は咸熙元年(264年)に屯田民を統括していた典農官が廃止され(『三国志』魏志陳留王紀)、泰始2年(266年)に各地で農官が廃止されて郡県が設置された(『晋書』武帝紀、なお地理志より同年に8郡が新設されたことが知られる)際に数十万戸から百万戸近い屯田民は戸籍に編入されたことが、魏末期から晋の太康年間にかけての戸数回復の主な要因とする。
- ^ “三国人口辨析 _ 中国经济史论坛” (中国語). 2023年11月4日閲覧。
- ^ 『三国志』 魏書十六 「今大魏奄有十州之地,而承丧乱之弊,计其户口不如往昔一州之民」
- ^ 『漢書』「地理志」に「1223万3062戸 5959万4978人」とある。ただし『後漢書』「郡国志」内での『帝王世紀』の引用では同年「1323万3612戸 5919万4978人」との記載がある。
- ^ 『後漢書』「郡国志」の注に「427万9634戸 2100万7820人」とある。
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