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単経Shan Jing

ゼンケイ

(?~?)
兗州刺史

公孫瓚将帥後漢書公孫瓚伝》。

初平二年(一九一)冬《後漢書袁紹伝》、公孫瓚従弟公孫越袁紹殺されたことから、復讐兵を挙げて界進撃し、単経を兗州刺史田楷青州刺史厳綱冀州刺史任じたが、このときは袁紹軍大敗喫している《公孫瓚伝》。

『後漢書』献帝紀が界決戦初平三年こととするのはおそらく誤り。単経は兗州刺史称しているが、その狙い東郡黄河北岸地域発干から頓丘まで)から鄴を圧迫することであって、この時点では黄河南岸地域視野には入れてなかっただろうと思う。

三年、単経を平原劉備高唐陶謙発干進出させたが、これらは龍湊において袁紹曹操軍撃退され幽州引き揚げた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

参照袁紹 / 厳綱 / 公孫越 / 公孫瓚 / 曹操 / 田楷 / 陶謙 / 劉備 / 兗州 / 界 / 冀州 / 高唐県 / 青州 / 発干県 / 平原県 / 幽州 / 龍湊 / 刺史


単経

(Shan Jing から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 19:04 UTC 版)

単 経(ぜん けい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。

事績

公孫瓚配下の武将。『三国志』魏書武帝紀・公孫瓚伝に登場する。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の公孫範の活躍もあって、河北で袁紹を凌ぐ程に勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は厳綱冀州刺史田楷青州刺史に任命したが、同時に単経も兗州刺史に任命されている。

初平3年(192年)春、公孫瓚は界橋の戦いで袁紹に敗れた。同年中(秋以降)に、単経は公孫瓚の命令で平原に駐屯し、劉備陶謙と協力して袁術を救援しようとしたが、曹操と袁紹に打ち破られた。単経のその後は不明である。

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献

  • 三国志』魏書8公孫瓚伝
  • 同魏書1武帝紀


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