単経
初平二年(一九一)冬《後漢書袁紹伝》、公孫瓚は従弟公孫越が袁紹に殺されたことから、復讐の兵を挙げて界橋に進撃し、単経を兗州刺史、田楷を青州刺史、厳綱を冀州刺史に任じたが、このときは袁紹軍に大敗を喫している《公孫瓚伝》。 『後漢書』献帝紀が界橋決戦を初平三年のこととするのはおそらく誤り。単経は兗州刺史を称しているが、その狙いは東郡の黄河北岸地域(発干から頓丘まで)から鄴を圧迫することであって、この時点では黄河南岸地域を視野には入れてなかっただろうと思う。 翌三年、単経を平原、劉備を高唐、陶謙を発干に進出させたが、これらは龍湊において袁紹・曹操軍に撃退され、幽州に引き揚げた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。 【参照】袁紹 / 厳綱 / 公孫越 / 公孫瓚 / 曹操 / 田楷 / 陶謙 / 劉備 / 兗州 / 界橋 / 冀州 / 高唐県 / 青州 / 発干県 / 平原県 / 幽州 / 龍湊 / 刺史 |
単経
単 経(ぜん けい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。
事績
公孫瓚配下の武将。『三国志』魏書武帝紀・公孫瓚伝に登場する。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の公孫範の活躍もあって、河北で袁紹を凌ぐ程に勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は厳綱を冀州刺史、田楷を青州刺史に任命したが、同時に単経も兗州刺史に任命されている。
初平3年(192年)春、公孫瓚は界橋の戦いで袁紹に敗れた。同年中(秋以降)に、単経は公孫瓚の命令で平原に駐屯し、劉備や陶謙と協力して袁術を救援しようとしたが、曹操と袁紹に打ち破られた。単経のその後は不明である。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
- 『三国志』魏書8公孫瓚伝
- 同魏書1武帝紀
- Shan Jingのページへのリンク