1995年7月から8月の軍事作戦
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「嵐作戦」の記事における「1995年7月から8月の軍事作戦」の解説
1995年7月、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの軍は合同で、ボスニア・ヘルツェゴビナの町グラモチュ(Glamoč)およびボサンスコ・グラホヴォ(Bosansko Grahovo)、リヴノ西側の村落を制圧した。これによって、ボスニア領セルビア人地域からクライナの首都クニンへと続く幹線道路がクロアチア、ボスニア両政府軍の占領下となった。クライナは重要な補給戦を絶たれたことに加え、その首都クニンは3方向から敵に包囲される状態になった。 クライナ・セルビア人軍は、ボスニアのセルビア人勢力(スルプスカ共和国軍)およびボシュニャク人の反乱勢力(フィクレト・アブディッチ率いる西ボスニア共和国)とともに、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府が支配するビハチ飛び地を消滅させることを目的とし、ビハチへの攻勢を開始した。ビハチは1992年以降、両セルビア人勢力に包囲されて孤立した飛び地となっており、4万人のボスニア人難民が逃げ込んでいた。これは、ビハチと同様に数年間にわたってセルビア人勢力に取り囲まれていたスレブレニツァが7月11日にセルビア人勢力に制圧され、スレブレニツァの虐殺が引き起こされた直後の出来事であった。国際社会は、スレブレニツァの虐殺のビハチでの再現を危惧していた。 1995年、7月の最後の週から8月の最初の数日にかけて、クロアチア軍はクライナ本土および東スラヴォニアの前線に沿って、大規模に軍を展開した。
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