1989年、汎ヨーロッパ・ピクニック
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「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「1989年、汎ヨーロッパ・ピクニック」の解説
詳細は「汎ヨーロッパ・ピクニック」を参照 1989年の夏、オットーは講演のためにハンガリーの都市デブレツェンの大学を訪れ、その夜に「民主フォーラム」の企画した食事会に参加した。この食事会の際にハンガリーとオーストリア国境の有刺鉄線の話題が出て、同伴していたオットーの娘ヴァルブルガ(英語版)が「鉄のカーテンや有刺鉄線を取り払うべきその場所に、国境で皆でピクニックに出掛けましょうよ」と言った。これがきっかけとなって、1989年8月、多数の東ドイツ市民がハンガリー・オーストリア国境を越えて西ドイツに亡命する汎ヨーロッパ・ピクニックが起きた。 オットーはこの後ハンガリーで急速に知られるようになり、さまざまな政党から接触を受けるようになった。ハンガリー大統領候補になるつもりはないかと尋ねられたこともあったが、オットーは議会政党の利害によって選出されることを嫌った。また、ハンガリー大統領になるよりも欧州議会での仕事のほうがハンガリーのためにできることが多かったため、辞退した。オットーはこれについて次のように語っている。「もしも状況が違っていたなら、つまりハンガリー国内のほうがハンガリーのために働けるのだったら、私は違う形を選択したでしょう」
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