1218年成立説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 00:35 UTC 版)
1218年成立説は1203年成立説を発展させたもので、「1203年に法令集(大ヤサ)発布の決議がされ、1218年チンギス・カンが金朝遠征から引き上げ、ホラズム遠征を決定する際のクリルタイで大ヤサが正式に制定された」とする説で、リャザノフスキーらが主張していた。この説の根拠は『集史』に記される以下のような記述である: チンギス・カンは、息子達と万戸、千戸、百戸、十戸のアミールたちを整え、集会を開いてクリルタイを行い、彼等の間で慣習としての新しいヤサクを設置した。 — 『集史』「チンギス・カン紀」 しかし実はこの『集史』の記述は『世界征服者史』の記述を一部表現を代えて引用した文章であり、原文である『世界征服者史』は「慣習としての新しいヤサクを設置した」を「新しいヤサを命じた」としている。『世界征服者史』の記述を見る限りこれが「法令」を制定したものとは言えず、この説も1203年成立説と同様に「法令としての大ヤサ」を制定したものとすることはできないと批判されている。 ただし、『世界征服者史』と『集史』の記述を比較すると、『集史』は明らかに読者が「1218年に法令としてのヤサが制定された」と理解するように記述を改変しており、このことは『集史』を編纂したラシードゥッディーン自身は「大ヤサ1218年成立説」が正しいと考えていたことを示唆している。
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