龍造寺との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:33 UTC 版)
天文14年(1545年)、少弐冬尚が龍造寺一族を謀殺する際に、馬場頼周と共に、冬尚に弁明に向かう最中である龍造寺周家、家泰、頼純を500余騎で取り囲んで殺害した。土橋栄益が龍造寺隆信の失脚を謀った際にも村中城攻めに協力している。天文22年(1553年)に龍造寺隆信が蟄居先である柳川から挙兵、勝利は八戸宗暘の八戸城へ入り防戦するも、打ち負けて隆信と和睦し自領である山内へ退いた。だが、隆信とは弘治元年(1555年)に再び対立、勝利は龍造寺領の諸所へ放火するなど抵抗を続ける。隆信家臣・小河信安は龍造寺家の障壁たる勝利を排除すべく、勝利の千布城の湯殿に忍び込んで暗殺を謀った。折りしも、勝利は酒宴中であり、不審者を発見した女中が焦って注進すると、「そのような者は小河筑前しかおらぬまい。こちらに呼べ」と言い、共に酒を酌み交わした。
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