鹿児島二中時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 18:51 UTC 版)
二中に進学すると野球部へ入った。準が1年次の1930年、二中野球部は当時の全国中等学校優勝野球大会に出場し、全盛期を迎えていた。当時は九州から南北それぞれ1校のみ出場でき、全国(甲子園)大会出場は難関だった。1932年には準の2年先輩かつ立教大学硬式野球部でも先輩で、大洋ホエールズ投手・コーチとなる有村家斉がエースとして活躍したが、当時準は遊撃手であった。同年より開催された全九州中等学校野球大会で鹿児島商業とともに県代表となり、決勝まで進んだが、鹿商に延長の末敗れた。記録は以下のようである。 全九州中等学校野球大会第1回戦 - 対嘉穂中学、6対2 第2回戦 - 対佐賀中学、1対0(投手・有村家斉がノーヒット・奪三振20) 準決勝 - 対筑紫中学、3対1 決勝 - 対鹿商、3対1(延長10回) 最終学年の5年になった1934年には投手となった。記録は以下のとおり。 全国中等学校優勝野球大会県予選(優勝)第1回戦 - 対川内中学、10対0(6回コールド) 第2回戦 - 対鹿児島中学、7対0 決勝 - 対鹿商、2対1 南九州大第2次予選(準優勝)第1回戦 - 対中学済々黌、17対1 決勝 - 対熊本工業、1対2(熊工のエースは川上哲治。熊工は全国大会決勝まで進み、呉港中学に惜敗) 第3回全九州中等学校野球大会(準優勝)第1回戦 - 対佐賀商業、6対2 第2回戦 - 対鹿商、4対0 決勝 - 対大分商業、2対4
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