高森勇気とは? わかりやすく解説

高森勇旗

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 13:32 UTC 版)

高森 勇旗(高森 勇気)
2010年11月23日 横浜スタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地 富山県高岡市
生年月日 (1988-05-18) 1988年5月18日(36歳)
身長
体重
180 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 一塁手捕手
プロ入り 2006年 高校生ドラフト4巡目
初出場 2009年10月3日
最終出場 2009年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高森 勇旗(たかもり ゆうき、本名および旧登録名:高森 勇気〈読みは同じ〉、1988年5月18日 - )は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手内野手捕手)。スポーツライタータレント野球解説者としても活動。株式会社HERO MAKERS.代表取締役社長。

経歴

プロ入り前

小学三年時、父と兄の影響で野球を始める。当時はイヤイヤやっていたが、「辞めたい」と言いだせないまま続けていた[1]。中学時代は高岡シニアに所属。中京高校では1年夏から正捕手を任され、高校通算30本塁打甲子園出場は無く、同高校の同級生に池ノ内亮介大抜亮祐がいる。

2006年高校生ドラフト4巡目で横浜ベイスターズから指名され、10月14日に名古屋市のホテルで契約。

プロ入り後

2007年は二軍で25試合に出場。高卒新人ということもあり、打率は.095と打力を発揮できなかった。

2008年、3月22日の横須賀スタジアムで行われたイースタン・リーグ開幕戦(東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦)で、7回裏に中堅手桑原義行の代打で出場して右中間に二塁打を放ち、8回表に捕手登録ながら一塁手の守備についた。当年以降捕手としての出場は無く[2]、事実上のコンバートとなった。8月2日に山形蔵王タカミヤホテルズスタジアムで行われたフレッシュオールスターゲームに6番指名打者として先発出場し3打数安打1三振だった。この年は二軍で89試合に出場、打率.274、チーム3位の9本塁打を放つなど打撃面で成長を見せた。しかし一塁守備では13失策を記録し、課題を見せた。また、8月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦(ロッテ浦和)では、第2打席でホームラン、第4打席でシングルヒット、第5打席でスリーベース、第6打席でツーベースを放ち、リーグ史上5人目・4年ぶりでありイースタン史上最年少となるサイクルヒットを達成し、6打数4安打5打点で全てのヒットで打点を記録した。

2009年は二軍で打率.309、15本塁打、長打率.501、出塁率.376(すべてチームトップ、リーグ5位以内)の好成績を残し、112安打でイースタン・リーグ最多安打のタイトルを獲得した。10月3日の中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)で三浦大輔代打でプロ初出場を果たし、10月4日の広島東洋カープ戦(横浜)でプロ初安打を記録した。

2010年は二軍で打率.246、6本塁打。5月以降は打撃不振に陥り、シーズン終了まで一軍登録も果たせなかった。2011年も一軍登録はなく、二軍でもイースタン・リーグワースト2位の打率.214と結果を残せなかった。

2012年より登録名を本名の「高森 勇気」から「高森 勇旗」にすることが1月11日に球団から発表された。二軍では4番を任された試合もあったが、最後まで一軍に上がることはなく、10月2日に戦力外通告を受けた[3]

DeNA退団後

2013年から社会人野球エスプライド鉄腕硬式野球部に加入。捕手として登録された。現在は退団している。一方、データアナリスト、スポーツライターとしても活動している[4]

2021年からはDeNAOBとしてTBSチャンネル野球解説者としても活動する。

人物・エピソード

少年時代は野球より勉強の方がはるかに好きで、将来は考古学者になろうと思っていた[1]

野球選手の物真似(形態模写)が得意で、食事休憩や練習の合間に披露し周囲を楽しませている。多数のチームメイトの物真似ができ、2008年のファンフェスタでは木塚敦志吉見祐治大西宏明鈴木尚典らの物真似を披露した。鉄板ネタに「木塚敦志」「スーパースロー映像での小笠原道大」、「フォークを空振りした村田修一」、「キャッチボールをする松本啓二朗」などがある[5]イチロー金本知憲・などの物真似もできる。シーズンオフに共に自主トレを行っていた石井琢朗のブログでも紹介されている。また木塚の物真似の縁があり中野渡進とも親しかった。

研究熱心であり、自分の打席を全て動画でパソコンに記録してフォームを分析し、相手投手、球種、自分の感想をノートに綴っている。パソコンを持参し杉村繁コーチに助言を求めたこともある。これには杉村コーチも驚いたという。

チームの先輩である鈴木尚典を尊敬しており、鈴木が背負っていた背番号51番をいずれ引き継ぎたいと口にしていた。また、同期の梶谷隆幸と仲が良く、戦力外通告の際には「俺の分も頑張ってくれ」とのメッセージを伝えている[1]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2009 横浜 2 5 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 .250 .250 .250 .500
通算:1年 2 5 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 .250 .250 .250 .500

イースタン・リーグの通算成績は470試合、353安打、40本塁打、169打点、打率.260

年度別守備成績



一塁












2009 横浜 1 8 2 0 1 1.000
通算 1 8 2 0 1 1.000

記録

背番号

  • 62 (2007年 - 2012年)

登録名

  • 高森 勇気(2007年 - 2011年)
  • 高森 勇旗(2012年)

著書

2017年

脚注

  1. ^ a b c 24歳でプロ野球をクビになった男が見た真実 ”. 東洋経済オンライン. 2014年12月26日閲覧。
  2. ^ 2007年度イ・リーグ公式戦に捕手として4試合(刺殺5、守備率1.000)・一塁手として2試合(刺殺2、併殺1、守備率1.000)出場しているが、捕手での試合出場は2008年度以後一度もない。また、捕手での守備練習も2009年春季キャンプに捕手として一軍へ呼ばれたとき以後は行っていない。
  3. ^ 来季の選手契約について”. 横浜DeNAベイスターズ (2012年10月2日). 2012年10月6日閲覧。
  4. ^ 野球太郎 No.007 P62-P65 廣済堂出版
  5. ^ 週刊ベースボール 2013年5月27日号 「セカンドキャリアの球人力」
  6. ^ 私はこうしてプロ野球をクビになった”. ITmedia (2019年1月31日). 2019年2月3日閲覧。

関連項目

外部リンク


高森 勇気(たかもり ゆうき)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:14 UTC 版)

ドクター・ホワイト」の記事における「高森 勇気(たかもり ゆうき)」の解説

高森総合病院勤務していた天才的な外科医麻里亜の兄。4年前に失踪する

※この「高森 勇気(たかもり ゆうき)」の解説は、「ドクター・ホワイト」の解説の一部です。
「高森 勇気(たかもり ゆうき)」を含む「ドクター・ホワイト」の記事については、「ドクター・ホワイト」の概要を参照ください。

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