高校→社会人野球選手時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:58 UTC 版)
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天理高では春夏の甲子園に4度出場。1年生の1975年夏の甲子園には控え投手として出場。準々決勝に進出するが新居浜商に敗れ、自身の登板機会はなかった。2年生でエースとなるが、1976年の春の選抜では2回戦で福井高に敗れ、同年夏の甲子園では3回戦で石川星稜に敗退。1977年、3年生時の春の選抜では準々決勝に進出するが、エース山沖之彦を擁する中村高に敗退した。同年夏は、県予選準々決勝で智辯学園の山口哲治に完封され、甲子園出場はならなかった。同期に遊撃手、四番打者をつとめた鈴木康友がいる。 高校卒業後の1978年に社会人野球の三菱自動車川崎へ入団。1980年の都市対抗野球ではリリーフで活躍。翌1981年の同大会では2試合に先発し、チームの準々決勝進出に貢献した。 1981年のプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから4位指名を受け入団。
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