高山長五郎への入門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:14 UTC 版)
嘉永3年(1850年)11月23日上野国緑野郡本郷村の養蚕農家町田藤太郎の子として生まれた。幼名は藤太郎。明治5年(1872年)3月9日家督を継ぎ、1874年(明治7年)3月本郷村副戸長となった。 矢場村で堤防工事を監督した際、休憩時間に吉田半十郎宅で高山長五郎の清温育の講義を聞いて興味を持ち、1875年(明治8年)入門し、1876年(明治9年)蚕児飼育法授業員として地域を巡回した。 1879年(明治12年)緑野郡の陸田を水田化するため神流川・三波川・三名川の灌漑を計画したところ、神流川から引水していた埼玉県児玉郡・賀美郡に反発され、肥土村高橋某等に自宅を襲撃され、高山長五郎宅に避難した。千曲川から神流川に引水して水量を補う案を立てるも、陸田を桑園として活用するよう長五郎に諭され、断念した。同年村役を辞し、村会議員となった。 1880年(明治13年)高山家監査員となり、授業員の勤怠管理を行った。1884年(明治17年)3月高山社が設立され、1885年(明治18年)副社長となり、練木喜三・松本伍作に蚕病対策、佐々木長淳に顕微鏡による蚕蛾・蚕卵検査を学んだ。
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