風早公紀
風早公紀
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風早 公紀(かざはや きんこと、天保12年8月21日(1841年10月5日) - 明治38年(1905年)2月28日[1])は、幕末から明治時代にかけての公卿、華族(子爵)。
人物
元治元年(1864年)、福原元僴らが萩藩主毛利敬親の赦免を嘆願するため、兵を率いて入洛する際、彼らの嘆願をいれるよう朝廷に建言した。明治維新後は、宮中に仕え、氷川神社や橿原神宮などの宮司を務めた。
系譜
- 父:風早実豊
- 妻:禎子 - 園池実達の次女
- 長女:愛子(1861-)
- 次女:純子(1865-) - 松尾作右衛門室
- 妻:鈖子 - 松平頼功の娘、本多富恭の養女
- 生母不明の子女
脚注
出典
- 上田正昭ほか『日本人名大辞典』講談社、2001年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 風早家初代 1884年 - 1905年 |
次代 風早実恭 |
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